ある言葉や表現が時代によって使われ方が変化することに文句を言っても仕方がない。そう使いたい人が多くなってきた何らかの背景があるはずだ。そんなことを、「知の巨人」という形容を多く眺め、考えている。
いつ頃から増えてきたのかと思い、グーグルトレンドでこの15年間の動向を調べた。するとこの10年間よりも2005年から2010年の5年間の方が多いくらいだ。
比較対象として「知識人」を入れると、「知の巨人」よりは多く使われているが、特に近年、際立った変化があったとは言えそうにない。知の世界が急に見直されているわけでもないのだ。その証拠に「教養」をみてもかなり安定している。
つまりネットという大げさな表現が使われやすいメディアで、「知の巨人」という表現が多用されているとの印象をぼくがもったのは、ぼく自身の勘違いか、この表現に違和感をもち記憶に残ったケースが多いことが要因になる。
この数カ月、パンデミックで世界が混乱に満ちているなかで、知の救いを求めるがごとく、例えば「欧州の知の巨人に聞いた!」みたいなインタビュー記事が目についたのが、筆頭例にあがるだろう。そしてソーシャルメディアで「知の巨人の○○が話しているよ!」と興奮気味にシェアされる。
ぼくは「へえ、この人が知の巨人なのか」とどうしても思ってしまうのだ。ぼくがイメージする知の巨人は、既に亡くなった方か、こういう表現は微妙だが、いわば晩年を過ごされている方で、もう滅多に社会に向けて発言されない方だ。
とっくの昔に「全著作集」が出され、巨人と言われるのであれば、その方の業績のおかげで、その分野で以前活動されていた方たちの成果が霞んでみえてしまう。そういう存在を自ずと期待するのだが…。
だが、仮に誰かを知の巨人と称する理由なりが発信側にあるとすれば、いわゆる権威主義の新しい「皮」を必要としていることになる。
どうして新しい皮が必要なのか?
いくつかの動機を想像することは可能だろう。時代の速度と状況の複雑さに対して科学的な合理性だけでは対応しきれなくなっている。そうすると対極として非合理性の主張が強くなる。並行して、野に放たれた個人の主観的な見方が乱立する。
多くの人は好き好んで主観的な見方を提示するのではなく、仕方なしに提示せざるをえなくなる。誰かが世界観を「どうぞ、ここからお選びください」と差し出してくれた方が楽だからだ。結果、野で十全の力を出し切って幸せになれる個人もいるが、「次善策としての既製服」を歓迎する人は少なくない。
鉄のカーテンの向こう側の世界が長く続いたのも、人間のそれなりの弱さと共存した好都合な面がある。こうした類の需要への対応として、提供する知がカッコつきの知の巨人の口から発されている…。
こういった話を推測する難しさは、それぞれの発信の良い悪いではなく、それぞれが全体状況の空き地にはめ込まれた時のマップが歪んでいることに、最終形を見たその時に初めて気づくのが多いことだ。
しかも、権威主義を必要とする人の姿は、具体的に誰かと政府、企業名、個人名として顕われるのではなく、実は「既製服を求める人たち」のうねりとしてしか見えないのである。受け手の人たちから発信者の姿を想像するしかない。
多分、発信者の本当の顔は見えないだろう。さらに言えば、発信する本人も自身の本意に気づいていない。
多くのことが試行錯誤で前進するしかなく、目的地自体も明瞭に見えないところで歩んでいくしかない。だから面倒を避けるためにこういう目的地と方法があるとも喧伝される。
そして、これらの一つ一つが「善意からの発意」なのだ。少なくても表面的にも、喧伝する本人の口ぶりもそうなのだ。
だが、この複雑な状況で、どれが悪い事態に通じる導火線であるかを見極めるのが至難の業であるため、「まあ、とりあえずやってみよう」となる。それは積極性という意味で大いに結構なことだが、1つの示唆が可能だ。
他人よりも自分がよく分かるエリアとサイズでの試行錯誤に狙いを定めることだ。自分がよく分かっているエリアなら、いずれにせよ「あなたにしかできない」。それでも十分に複雑怪奇な事態を目にするはずだ。
さて、このぼくの示唆も「地獄に通じる善意で舗装された道」にある特徴だろうか? 正直言って、ぼくも分からない。その可能性があることを常に頭の隅においておくしかない。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。