今週、ファッションブランドであるブルネッロ・クチネッリのミラノのショールームに出かけた。2021年春夏シーズンのコレクションを「リアルなカタチで発表」したのだ。意外なことに、社長のクチネッリからモデルに至るまで、関係者は誰一人としていわゆるファッショナブルなマスクを着用していなかった。彼らがつけていたのは機能ありきのおなじみのマスクである。
これまでマスクの習慣がなかったミラノでは、パンデミックに突入してからというもの、ファッショナブルなマスクが氾濫している。服とマッチしたマスクをすることがセンスの発揮どころとばかり、店に行けばネクタイと同じ柄のマスクがセットで売られている。ポケットチーフと同じ位置づけだ。
したがって、お洒落であることを自認している人たちは、白や薄いブルーの従来の機能重視型のマスクをつけない。そうした人たちが集まるような場に白いマスクをつけていくと、逆に肩身が狭いくらいだ。
だからファッション企業の新作コレクションの発表の場は、服とマスクの統一感を優先したスタイルが主流だろう、とぼくは疑っていなかった。ところが、ブルネッロ・クチネッリのショールームに入ると、ファッショナブルなマスクをつけている人など1人もいなかったのである。
社長のクチネッリに理由を尋ねると「マスクがマスクとして機能することが大事」とのコメントが戻ってくる。
パンデミックに生きるとは、それまで非日常とみなされてきたことを日常に吸収させる(あるいは抵抗の少ないカタチに変える)という考え方が定着している。マスクならば「オシャレなマスク」をつけることが、ニューノーマルに最適合した記号であると見られやすい。
しかし、クチネッリの方針を実際にみてハッと我に返った。
ブルネッロ・クチネッリは3月初旬にパンデミックに入ってから、常に我が道を歩んでいる。多くの高級ファッションブランドが医療施設への寄付や医療従事者への衣服の提供などを競って広報した。
実際、クチネッリも同様のアクションを取ったのかもしれない。ただ、それを大きな声で語るよりも、世界各国の人々に向かって「天災にも魂はある。賢明な人生の師になり得るのだ、というアリストテレスの言を心に刻みたい」との社長の言葉を静かにおくりだし、それを手紙という形式に託した。イタリア全土がロックダウンして1週間ほど経た頃だ。
4月に入ってからの2通目の手紙には、「孔子の言葉の中に私を魅了した一句がある。『遠くのことを見通せない者は、近くの不幸にさらされる』」と記されていた。そしてその月の下旬、生産活動の再開が可能になったとき、「非常に困難な時は過ぎ去りました。やがてあなた方にも夜明けが戻ってくることでしょう」と3通目を出した。
言葉のもつ力を十全に出しきっている、とぼくは一連の手紙を読んで思った。自然に翻弄されながらも、自ら自然体で生きていこうとの強い意志が感じられた。
7月になり、このパンデミックで在庫となった衣服、工場出荷レベルのコストで3千万ユーロ(およそ36億円相当)を世界中の援助を必要とする人たちに贈ることに決めた。タグをBrunello Cucinelli for Humanityと付け替え、小包にして送付する。
およそ半年間、世間の目を一挙に集めるより、自分たちの感覚に丁寧に沿いながら自分たちの道を選びながら彼らはやってきた、とぼくの目には映ってきた。
その彼らの回答が、全体のファッション性よりもマスクの機能をより優先することだった。いや、実を言えば、ぼくは他社の新作発表の現場を見ていない。もしかしたら、ブルネッロ・クチネッリだけの方針ではないかもしれない。
ただ、「ニューノーマルへの適性誇示」の記号としてのファッショナブルなマスク現象を暗に静かに批判しているように、ぼくには思えた。
人が集まる室内ではマスクを着用しないといけない規則がある。でもそれを受け身でやっているようには思われたくない。だからお洒落ぶりを発揮したい。そうやって自分を鼓舞もしたい。
気持ちとして十分に分かる。しかし、それをウイルスとの共生を受け入れる適性シンボルとして捉えると、適正競争というちっとも楽しくない次元に嵌り込んでいる構図ができる。
ブルネッロ・クチネッリのショールームの風景を眺めながら、「その構図はやめようや」と軽くストップをかけているのではあるまいか、とぼくは考えた。何人の人がそう思うか分からないが、ラグジュアリー領域のファッション企業が示す態度は、思ったより影響が大きいと期待したい。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。