大都市圏にあらゆるものが集中し過ぎた社会は脆い。また生活の仕方が画一的になりがちで息苦しいと感じることもある。他方、それ以外の地域の生活にもっと胸が躍ることがある。そう気づきはじめた人たちが地方を盛り上げたいとさまざまに動いている。先進国の多くで共通した分散型への一現象だろう。
日本の地方の中小都市などで活動している人たち、もともとその土地にいた人とそこに大都市から移ってきた人たちの両方のケースがあるが、その人たちの声を聴いていて少々気になる。
ローカルにある歴史や文化をじっくり見つめ直し、これからの方策を考えていくアプローチに賛否両論あることだ。積極的な人は土地に深くあるコンテンツを再考してこれからの未来に夢を膨らませる。消極的な人は、これらのコンテンツがローカル活性化に貢献する可能性は低いだろうと冷めた目でみる。
ぼくがひっかかるのは、後者が消極的になるそもそもの背景である。どうせコンテンツは住人にとって刺激に乏しいから、歴史や文化に目を向けても無駄だと思っている。極端に言えば「地元の人など見向きもしない、ローカルの逸話にちなんだ土産物屋におく菓子を作るのがオチだろう」と。
日本はどこかに行くと土産を買う習慣があるからか、過去のエピソードや土地の象徴的モノに紐づく食べ物や置物を商品化するのに熱心だ。それらの特徴は往々にして、ローカルとはまったく関係のない造形や材料で、ロゴやパッケージだけが名品の証であるとアピールする。
さすがにこの手の土産は限界にきていると思うが、このジャンルに知らない間に近寄ってしまうマインドはなかなか消えない。
土産モノの何が問題か?
地元の人たちが日常生活で使うものや食べるものとは違うものが開発され、それらが商品として販売されることだ。それも地元の人が愛する特有のモノの質を高めて値段が高く、それがために「こんなもの、地元の人は買わないよ」という商品ではない。
観光客しか手を出さない「土産ジャンル」とも称するところに企画が簡単に行き着いてしまう。その安易さがまだまだ蔓延しているらしい。
したがって、過去のエピソードに気安く救いを求めることなく今の時代を生きるのが大切だと強調しがたいために、「歴史や文化に肩入れするな」との表現に走ってしまうのだ。
本心のところで歴史や文化が大切だと思っているのに、あえてそこから距離をとろうとする。「歴史があるから」「文化があるから」という言葉が否定しがたい絶対的価値として提示されがちだから、それに苛立つのだろう。
結局のところ、歴史や文化が今の日常生活と「地続き」であるとの経験が少ないことに、この不満は由来するのかもしれない。仮に地続きの象徴的存在が土産モノならば、逆に歴史や文化が魅力ある題材に見えないのだ。
それぞれのローカルにある長い年数に及ぶ人々の試行錯誤の数々は、それぞれにユニークである。誰もつまらない人がいないのと同じように、どのローカルにも耳を傾けるに値する経験の集積がある。
ただ、どうも「私たちはユニークである」との説明を掘り下げることもなく、そのレベルで土産のロゴやパッケージができてしまうのだ。
かつて評論家の加藤周一は次のようなことを語った。
“日本の富士山を「日本一美しい」と言う人がいれば、どうかな? と思いながらも、そう言いたい気持ちを日本人として察することができる。しかし、「富士山は世界一美しい」と表現する人は、単なる井の中の蛙だと言わざるをえない。富士山と同じように自然現象でできた形状の山は世界に珍しくない”
ローカルのユニークさをユニークであるとの理由だけで自画自賛しているのでは話にならないのである。富士山の形状もさることながら、富士山にまつわる数々の風景や逸話が社会のなかで生きているのに興味を引くのだ。
ローカルの文化的な資産は、ローカルの日常生活のなかにあって「生きている」からこそとても豊かで楽しいものになる。だから土産ものを企画するのではなく、生活する自分たちがそれでより輝けるように考えないとワクワクにならない。一時、外の人が観光客としてワクワクしたとしても、内の人がワクワクしていないと持続するものにならない。
即ち、内の人が無関心で外の人だけが関心が高い、という状況はあまりお勧めできない。内で盛り上がり、たまたま外の人に対しても売りものになるのであれば、「渋々」譲ってやればいいのだ。それが心に残る土産になる。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。