パンデミックとの付き合い方は、そう簡単に習得できるはずもない。イタリアも先月から第2波に苦しめられている。そこで政府から矢継ぎ早に出る厳しい行動規制に対して国民の反発は強い。この3月から延々と何らかの規制が(途中に懐柔策はあるが)続き、人々は八つ当たりをするしかない。
先日、首相のコンテが「私も反対の立場にいれば大いなる不満を政府に抱くはずだ」とコメントしていた。
6月に封鎖が解除されてもソーシャルディスタンスは維持し、レストランに行けば限定的なメニューから料理を選択せざるをえない。閉じられた空間に入る時は体温を測り、手を消毒し、マスクを着用する。
全員が全員すべてをきっちりと守っていなくても、少なくても7~8割の人たちが概ねそう無茶なことをしていない。ミラノで生活しながら、そういう感覚で街の風景を眺めていた。
実際、どこかの報道でマスクの装着率は7~8割だったと伝えていた。「ああ、やっぱりそんな感じなのだ」と思った。しかるべきところに行って受付で指の消毒をし忘れたら、猛烈な勢いで注意を受けた。
それだけ注意をしてきても、日々驚くほどの勢いで感染が広がっている。10月前半あたりまではスペイン、英国、フランスと比べてイタリアの抑えが効いていると見えていたが、いつかあの波がイタリアにも到来するのは避けられないとの覚悟は春の経緯で痛いほどよく分かっている。
国境をあけたまま完璧な予防対策などありようがない。それは分かっているが、人々は誰かに文句を言わないと気がすまないのだろう。
この感染が社会にもたらす混乱は、死者数もさることながら、重症者の長期入院による医療施設やスタッフの占有であることが第1波の際に学んだことだ。
それにも関わらず、メディアも政府も騒ぎすぎると大声をあげる人たちがいる。確かに先月の前半あたりは、「第1波の死者数は低いし、重症者もまだまだ少ないから心配し過ぎはカオスの元」との説明に説得性があり、納得する人たちも多かった。
しかし感染者数と入院者数が毎日ぐんぐんと上昇し、集中治療室の状況が厳しいと報道されると平常心を保ちきれなくなっていく。そうするとウィルスの性格よりも、行政のこれまでの判断が適切だったのかと問いたくなる人が増える。
毎日、行政の発表するデータを見やすく加工し、自分のコメントを加える医師のソーシャルメディアへの投稿を見ている人が多数いる。「いいね」の数はいつも4桁以上だ。初夏から初秋にかけては、状況が制御できているとの安心材料としてその投稿を見ていた人たちが、晩秋には「もう、こんなの見ていても無駄だ。感染は何をどうやろうと広がるしかないのだ」と捨て台詞を残して、コメント欄から去っていく。
そういうコメントを眺め、ぼくは踏ん張りどころと感じる。多分、ぼくだけでなく、何千かの少なくない数の人が、踏ん張りどころだと思っていて欲しいと願いながら、それらの言葉を読んだに違いない。第2波で気になる点は、コメント欄の言葉の数々が荒っぽくなっているのではないかということだ。
言葉の表現が荒くなると、当然ながら、日常生活における心持や行動も雑になる。第1波の時の規制は初めての経験で、文句を言える知識もなかったので、心地よくはないが行政の指示に従うしかないと腹を決めた人が多かっただろう。
しかし、8カ月が経過して、行政には対策ノウハウが蓄積しているはずだから、適切な処置で感染拡大は防げたはずではないかと人々は愚痴りたくなる。アジア圏の特定のある国々で実施しているようなシビアな行動管理とは別の方法を、欧州諸国は産み出せたのではないか、と。
兎にも角にも、やり場のない怒りをどう扱えばいいのか分からない人たちの言葉は荒れるのだ。自然災害にあった時、「人災」ではないかと、半ば諦めながらも行政を相手に問い詰めざるをえない気持ちに似ているかもしれない。
11月6日からイタリア全土で州の感染状況に応じて3つのレベルに分け、一番感染度合いが高い地域(ミラノも含む北部に多い)は、3月のロックダウンと比較するとやや緩い規制ながら、それなりに窮屈な生活を強いられることになった。
医療サービス側でピーク時への対応準備期間がどれだけ稼げるか、これが目下の関心事だ。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。