2020年はどういう年であったか。ぼくの感想と多くの人のそれは似たようなものになるだろう。それだけ世界の多くの人が同じような経験をした。いや、経験せざるを得なかった。グローバリゼーションとは何なのか、こんなにも肌身に感じたこともなかっただろう。同時に、物理的距離が近いことやローカルがどんなに大事なのかも。
そんな思いに耽っている時、リーマンショックのあった2008年、その年末にある人から言われたことを思い出した。次のような言葉だ。
人の生きる世界は日々の生活する世界だけでなく、その向こうにもう一つ別の世界があることをもっと認識すべきではないか、と。どんな不況であっても、予定されていた太平洋ヨットレースは行い、それを夢中になって応援する・・・そういうメンタリティが必要ではないか、と。
あの時の不況と違い、今回のパンデミックは人の物理的行動範囲を狭くせざるを得ない。そこで狭い世界、つまりは毎日の日常生活や家族、あるいは近しい人たちとのつきあいに焦点があたることになった。
12年前、日常生活とはまったく別物の世界に夢中になることを彼は説いていた。この部分をどう実現するか。それが今年の大きなテーマだった。結局、東京オリンピックは延期になり、多くのスポーツのゲームは観衆のいない場で開催され、スピーカーから観客の声援が聞こえない。楽しめることは楽しめても一抹の寂しさは否めない。
だが悲嘆ばかりしていても始まらない。よって、できるだけネガティブな部分は見ないようにし、ポジティブな部分を強調する習慣がつく。ただ、精神的無理は続かない。
だから、ここでは他の人と違ったことを書こうと気張らない。
確か、2月末以降、レストランは4回しか行っていない。レストランの賑わいや旅情に誘われる気持ちが消えたわけではない。しかし、籠りの反動として出かけることはなかった。旅で滞在している地域で急に感染が広まり、その街が封鎖されるなど余計な面倒が生じることを恐れた(現実、それに近い事態がイタリアで起きた)。そんなリスクを勘案するくらいなら、自宅の近所を散歩していた方がいい。
「オンラインでもできるじゃない!」という言葉をたくさん聞いた。
ぼくもその有難味を実感した。実際、今夏から3つの読書会や勉強会を定期的に主宰している。こういう状況でなければ決して手を出さなかった分厚い本も読んでいる。
この活動によって今まで目が届かなかった分野にも注意を傾けるようになった。まったく未知の分野というよりも、そういう分野があることは知っていても、ここまで自分のフィールドに貢献してくれるとは気がついていなかったのだ。
視界に入りながらも、積極的に見ようとしないと風景はそれと認識できないのである。好奇心がすべてと言っても、好奇心があれば視界のすべてに注意がいくわけでもない。
そういう意味で、2月後半以降の日々は内省と学びの1年であったことに嘘偽りがない。強がりではなく、率直にそう言える。
しかしながら「じゃあ、2021年もずっとこれでいい?」と聞かれたら、嫌だと答えたい。
別に内省が十分にできて学びが納得のいくレベルに至ったから、外で活動する日々に戻りたいということではない。この1年、考えた多くのことを試行錯誤の実践的ステージに移したいのだ。
言うまでもなく、あることはオンラインでもできる。しかしあることはオフラインが圧倒的に相応しく、オンラインで代用させたくない。リアルな実感を伴うプロジェクトを丁寧に仕上げていきたい。
この数年、数々のコンセプトの言葉が徘徊している。他方、それらに対応する実質的と表現すべきか、あるいは物理的に重量のあるというか、五感に触れるものの質があまりに低下していると感じる。
正確に言えば、五感に触れるものがないわけではない。たくさんある。ただし、コンセプトとリアルなモノやコトの間に乖離があり過ぎるのだ。殊に、今年、オンラインで言葉が先行する傾向が強まったので、そのギャップはいや応なしに顕著になった。関係図が混乱しているのだ。
だから、抽象と具象、ヴァーチャルとリアル、両者の関係修復にエネルギーを費やしたいと思うのだ。「この言葉の表現に合っているのは、これでしょう? このモノに合っている表現は、この言葉でしょう?」というある種、安定感のある世界とはどんなものかを示すことを目指したい。
これだけあらゆることがめちゃくちゃになったのだ。カオスがイノベーションを生む源泉であればこそ、ヴァーチャルとリアルの整理整頓それ自体がイノベーションになる。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。