ぼくは大学生の頃、世代論の雑誌記事があると熱心に読んでいた。新しい世代、まさしくぼくらの世代が上の世代からどう評されるのかに関心があったのだ。今であれば、1995年以降生まれのZ世代に対する論評をZ世代として面白がる、という構図になる。
さて先日、音声ソーシャルメディアを聞いていてアレッと思う展開があった。地域をどう盛りあげていけばいいのかを30-40代であろう人たちが話し合っているところに、今春から大学生になる10代の若者が発言をした。
「今のようにスマホを使えない高齢者と情報格差がある限り、地域は元気になれない。だからスマホを使える人が全員になるタイミングを待たないと無理だ。ぼくがおじいさんになったときには問題がないはず」という見方を披露した。
テクノロジーは頻繁に進化していく。発言した彼も、10年後には「もう大学生の情報取得力にはかなわない」と言っているかもしれない。そのくらいに、変化のスピードがあまりに速い。
だが、ぼくが経験する限り、若い人は次のように反論する傾向にある。
「製品のユーザビリティに対する研究は各段に進んできているから、新しいテクノロジーは最初の投入の時から使い勝手はさほど問題にならないはず」
ただ、どのようなテクノロジーも試行錯誤の末にカタチになっていく。そのプロセスで苦労した経験が少ないから、想像が追いつかないのは仕方ない。
しかし、もっと大きな問題が別のところにある。
年齢が上にいくにしたがい新しいことを学ぶ、あるいは馴れることがしんどくなっていく。こういう、人が運命として避けられない性質をどう考えるかである。
もちろん生涯学習の機会提供と利用は、さらに推進していかないと社会として立ち行かなくなるのは目に見えている。
しかしながら、人は自分が過去に経験したこと、学んだことだけでは限界があるとは自覚しながら、可能な範囲でそれらを延命させたいと思うものだ。気力の問題でもある。
なにも高齢者の特徴を言っているのではない。20代でも30代でも見かける現象だ。20代後半にもなれば「大学生のように積極的に新しいデバイスやアプリを使う気になれない」と言う人がぼつぼつと出てくる。
スマホであれPCであれ、年代を問わず、多くの人はハードウェアの一部の機能と使い慣れたアプリしか使っていないはずだ。それでも必要に迫られて新しいアプリを追加していく。好奇心で動く人の方が少ないに違いない。
「好奇心がすべてだ」「学びの力こそが肝だ」「学習する土壌とは何か」と、こうしたフレーズが盛んに飛び交うのは、「学びはしんどい」と思う人が多数なのが現実だからだ。
好奇心溢れる学びを苦と思わない人は、「学ばないといけない」と義務的に感じることなどないのだ。こうした人たちは「学びは楽しいから、この楽しみを奪われたくない」と語る。
思い出していただきたいが、個人の生き方の是非として議論をしているのではない。地域全体のコミュニティの話である。
コミュニティのために学ぶ気力をどの程度持つことが住人としての務めなのだろうか。
「社会統合」という考え方がある。
どこかの国に外国人として長い年数にわたり住むにあたり、社会に積極的に馴染む意思のない人は滞在許可証を獲得しづらい。国によるが、公用語や歴史の試験に合格しないと社会統合の対象に入れてもらえない。
難民としていや応なしに移住したら、その国のコミュニティから疎外されないよう、その国の文化を学ぶように政府や自治体から「お誘い」がくる。
しかしながら、生まれた国で教育を受け、そのまま生活している場合、社会統合をあまり意識しない。独り暮らしの人に町内の回覧板が届きにくいなど数々の問題はあるだろう。高齢者のためのパソコン教室に行くか行かないかもあるだろう。このようなエピソードはメディアの話題にものる。
だが、30-40代の現役バリバリの人たちの「学びへの無気力」は、職業人生として低評価をうけこそすれ、コミュニティへの統合という評価で実にグレーゾーンだ。即ち、傍目に見えにくい。子育てのシーンでは登場するが、地域全体としてどうなのか。
冒頭に紹介した若い子が批判したのは高齢者の学びの問題だ。しかし、中年になるに従い体力的にも精神的にもさまざまな限界を感じ始める世代の(疲弊する前の)学びへの気力が実は勝負どころではないか。
このレイヤーの気力がコミュニティを動かす力になるので、彼ら/彼女らがやる気になる環境こそが鍵だと思う。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。