「意味のイノベーション」のエヴェンジェリスト的な活動をはじめて4年近くになる。立命館大学経営学部の八重樫文さんと『デザインの次に来るもの』を一緒に書き、現在、ストックホルム経済大学でイノベーションやリーダーシップを教えるロベルト・ベルガンティの『突破するデザイン』を監修したのが2017年だ。
情報が氾濫している時代において、我々は自分たちのありかや向かうべき方向を自身でどう決めていけば良いのか、ということを上記の2冊の本で語っている。殊に「ビジネスとは社会の問題を解決する存在である」と宣伝と弁明も含め盛んに発信されるなか、「我々は問題を解決するために生きているのか?」との自問はどうしても出てくる。
また、「デザインとは問題解決である」というセリフもあまりに普及したことで、複雑な社会問題を解決する企業活動にデザインが有効であるとのロジックも通りがよくなった。だが、「デザインは問題解決のためだけにあるのか?そんなことはないだろう」との批判や反省も出てくる。
「デザインとはものごとに意味を与えることだ」との考え方に基づき、意味形成(=センスメイキング、意味付け)の領域に再び目を向けるべきだと主張したのがベルガンティだったのだ。ぼくたちは意味を実感するために生きているのだ。例えば、子どもに人生でそれを感じて欲しくて子どもを授かったのであって、子どもたちに問題解決して欲しいために子どもをこの世に迎えたわけではない。
「意味のイノベーション」はそういう文脈のなかで説かれている。
問題解決が下位にあって意味形成が上位にあるわけでもなく、そもそも問題解決と意味形成と2つに区切っているのは、アプローチの仕方を明解に説明するためだ。実際には、両者は離れがたく関係しあっている。ベルガンティも上述の本のなかで、「意味のイノベーションは問題解決からスタートする」と記している。
しかしながら、問題解決が極めてテクニカルな領域であることが多いために、思索的あるいは内省的な要素が多い意味形成に「憧れ」をもちやすい。表現も具体的であるより抽象的である。そこで、このおよそ4年間、問題解決を「見下す」人が出没しやすいと感じた。
その次にどのような潮流がでてくるか? 問題解決と意味形成の両方をみることが全体像をみるに必要だ、との意見を言う人たちだ。ベルガンティも両方が必要であると語っている。が、それで全体像が見えるとは言っていない。
世の中には多数の見方がある。そのなかには相反するような見方もたくさんあり、これらを一緒にする、または「弁証法的に止揚する」というアプローチもある。ただし、たまたま対立するように見える視点の両方を使ったからといって全体像は見えない。
全体像を見るには、これまでに話してきたような分析的な見方だけでは叶えない。あえて視点でいえば山で自分の位置を知るように最低3つは必要だし、時間軸に基づいたエピソードの集積が欲しい。いわば、歴史も含めて風景を見るような態度だ。
更にいえば、その風景のなかで日常生活を営む人々の想いや考え、あるいはアイデンティまでをも「実感」することだ。それはちょうど、異なった文化を自分なりに実感し、解釈する行為に似せられるだろう。
言い換えれば、分析的なものの見方を相対化することによってしか全体像に迫れないはずだ。しかしながら、ぼくがみるところ、多くの議論は「分析的な見方の統合競争」に嵌っているような気がする。
どれだけ統合すれば全体像を把握できるか、という相変わらず分析的な層での厚みを増すことにばかりに集中している話が多い印象がある。もちろん、厚みが増すのはいいのだが、問題は「これで全体像が掴めた」と確信してしまうことだ。
これを誤解というのか誤謬と評すればよいのか分からない。しかしながら、これは全体像が分からないと不安にあるよりも始末に負えない。まずは、視点、見方、アプローチといった類は、あくまでも限定された言葉であることを認識しないといけない。一方、全体像は全体像で、主観的な要素も強い。
肝心なのは、当然ながら、こうした議論は科学的な証明を目的としているのではなく、何らかの行動を起こす確信を得るためである。前進するため、それもマシな前進をするためのロジックこそが求められる。
自分の分析能力が優れていると自慢したい人は別だが…。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。