この何年間か「地方創生」や「地方活性化」という言葉を頻繁に目にする。一時、「世界は大都市同士の競争時代に入った。これからは地方をどう見捨てるか? がテーマだ」という不穏なフレーズさえ出かねない勢いだった。いや、実際、そういうフレーズも読んだ覚えがある。
それが今や地方が語られない日はない。ここでいう地方とは、日本のなかでざっくりといえば東京以外のすべての地域を指している。大阪や名古屋でさえ「東京以外」という捉え方になっている。もちろん、東京も一地方には変わりないのだが…。
「今、地方だ」と大きな声で叫ばれるのは、「分散型システムを機能させるべきだ」とほぼ同義である。東京に代表される都市を極としたあり方が問われているのである。したがって東京が地方であるかどうかという問題ではない。
いわば中央司令塔に地方が従属するとの構図は、グローバリゼーションや大量生産・消費の時代が似合う。正確にいえば、グローバリゼーションに似合うように地方が合わさざるをえないとの事情が多分にあった。
だが、さまざまな要因が状況を違ったものにした。その一つに、グローバリゼーションがすべてであるとは人々が考えなくなった、ということがあるだろう。
実は4月15日、「『地域再生』はイタリアに学べ!! --クチネリからテリトーリオへ」とタイトルされたオンラインイベントのモデレーターをやることになった。それで「地域」「地方」「ローカル」について再考しているところだ。
タイトルにあるブルネロ クチネリとテリトーリオについては先週の本連載コラムに書いた。イタリアの地方にある小さな村のファッション企業が仏・エルメスと同等のブランドであると格付けされ、世界のトップレベルの人々をファンに抱えている。そして、その企業が田舎の風景を美しいものにすべく長年、手間暇をかけてきた。それら一連の事業は人々の尊厳を大事にするためだ。(「人への尊厳がクリエイティブに繋がる」 本当に“腹落ち”したクチネッリ氏の哲学)
テリトーリオは地域を表すイタリア語で都市とその近郊、またその周辺の田園地帯をも歴史や文化の文脈からひとつのゾーンとしてみる概念である。行政区分とは異なる。そのゾーンをクチネリ氏は半生をかけてケアしてきた
こうしたローカルが重視されるモデルがイタリアの各地に存在する。ローマの中央政府が一括して管理するのではなく、それぞれの地方が分散型システムのひとつとして運営するのである。企業をコアとした地域コミュニティに限っていえば、かつてオリヴェッティ、ベネトン、ディーゼルと名前があがってきた。日本には企業城下町という言葉があるが、これらのイタリアの事例はその企業の法人税が地域財政を支える以上の地域文化貢献モデルとして評価されてきた。
「イタリアは都市国家のあつまりだからでしょう」と上記を説明する人が多い。それも大きな理由だろう。しかし、それだけではないということにぼくも気づいてきた。
中央集権的なコミュニティとは非人間的なコミュニティなのだ。1人1人が生活している場所で何かを感じ、考え、そして判断することを重視するのは人間の尊厳に関わることである。ローカルアイデンティティが大事にされるのは、このコンテクストにおいてまったく自然な流れだ。
地方の田舎に住めばー閉鎖的なコミュニティにぶち当たるかもしれないがー自然が豊かな環境でゆっくりとした時が過ごせると言われる。自然のリズムと生活の調和が問題にされる。そして「人間らしい生活が送れる」は個人的な趣味や生き方の選択のレベルで語られることが多い。
しかし、それらのレベルだけで論じているのでは不十分である。人間が人間として大切にされる点に注目するべきなのだ。あえて誤解を恐れずに表現すれば、人の権利というよりも、人の存在として原初的な価値に目を向ける、ということになるだろうか。
また、経済効率というレベルだけで東京一極集中か地方分散かと議論していると、地方で生活しながらも自分の子どもを東京の高偏差値大学に進学させられるか?という悩みともつかぬ歪な思考経路を辿ることになる。
その考え方が適切ではないと必ずしも言い切れない。ただ、それを大前提にした地方移住とは何なのか? は自問するのが適切だろう。
分散型システムとは人の尊厳と密接な関係にあるテーマであると意識すると、こうしたさまざまな点の見直しが迫られていることに気づく。思った以上に根源的な視点の転換を問うているのだ。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。