権力に近いところにいる人が多くの情報を持ち、そこにいない人は世の中で起きていることを分かりえない。したがって多くの人は自ら状況判断をする術がなく、特定の層にいる人たちの結論や見方に従わざるをえない…という時代が長くあった。しかし、このようなヒエラルキー構造が崩れつつあると言われる。または、ある分野においては、崩れつつあるのではなく、既に崩れ去ったとさえ表現される。
一部の人が独占的に情報をもつことが少なくなった理由は、言うまでもなく、インターネットの普及による。これによりマスメディアが伝える情報が相対化されることになってきた。以前であれば受け手が信じるしかなかった情報が、「信ずるに値するか?」と問われる回数が増えてきた。そしてソーシャルメディアに行きかう情報で検証をする習慣ができてきた。
マスメディア不要論はこのような推移で登場してきている。この議論が出てくるたびに、ぼくは「じゃあ、戦争報道はどうなるのだろう?」と思ってきた。世界のどこかの国で理不尽な争いを繰り広げ、そこで死に至る人々がいる。もちろん、火に油を注いでしまう場合もあるが、不幸な状況をストップさせるに、プロの手による報道記事が果たす役割は大きい。
ワシントン、モスクワ、北京といった国際政治の主要舞台の裏側もそうだ。国内政治にしても永田町で本当に何が話し合われているか、ほとんどの人にとって蚊帳の外である。仮に単発的エピソードをたまたまリアルに知る機会があったとしても、素人はどういう文脈で理解すればよいかを不案内である。
長くそこにいて、そこの空気と匂いを熟知する第三者の状況判断をやはり知りたい。頼りたい。
それに比べると、社会問題はプロの観察と判断をあまり要さないと思われやすい。交通事故、殺人事件、教育問題、家庭内暴力、芸能人のドラッグ…と数多の種類がある。
ただ、窃盗事件についてあまりに正確な見方を披露しようもなら、逆に罪を犯した経験があるのではないかとの疑いをもたれかねない。あるいは警察関係者や弁護士かとも勘繰られる。家庭内暴力にして当事者かと思われるのを恐れ、意見を控えることもあるだろう。
それでも、ソーシャルメディアを眺めていると、どんな類の問題や事件についても人々は食いつく。まったくその分野に知識や経験がなくても、何か自分の見方を披露しようとする。
これらのなかで特に、教育問題は表現に迷うが「餌食」になりやすい。本来、多くの人が議論できるのだから肯定的な表現をすべきと思うのだが、当事者たちー子どもにせよ、親にせよ、教師にせよーにとって単に雑音でしかないことが多い。
それほどに教育は誰でも堂々と口にできる話題だ。すべての人が義務教育は受けており、子どもがいれば、最新の学校の事情をリアルに知っている、ことになっている。この場合は事情をよく知っていることに後ろめたくなく、むしろ知っていることは子育てに熱心である証明にもなる。
だが、ソーシャルメディアで教育問題に関する投稿やコメントを眺めていると、やはりこの分野をよく見ているプロの意見にはさすがと思うものが多い。
その分野のことを長く見てきた人の意見については否定的な見方もある。部外者から見れば悪習としか言いようがないことも、「仕方ないこと」として悪習を温存してしまうことが往々にしてある。いわばイノベーションを阻止する側にまわりやすい。
但し、そうした危惧があるとしても、筋の通ったことを語る人の存在を不要だと断言するのは道理が通らない。教育問題ほど多くの人が積極的に考え発言できるネタでさえ、プロの声に耳を傾ける意味があるのだ。
いわんや、国際紛争と教育問題の間に大きく広がるゾーンをしかるべきアプローチでコンスタントに見続け、そこで起きている事実を伝え、その解釈のありようをいくつか示してくれる人が不要であるはずがない。
実は大人になり年齢が増え、経験を多く積めば世界がより分かるのではないかと漠然と思っていた時期がある。しかしながら、経験を積めば積むほど、自分ではどうしても分からない部分がはっきりと見えるようになってきた。目の前の状況の背後にはいくつか想定される動機があるかもしれないが、それを「こうだ!」と確定するには事情に疎すぎる、判断基準のあり方に無知だと自覚をするようになってきたのである。
したがってぼくは、(サポートする動機を持ちやすい政治や経済だけでなく)社会問題に対しても、それを専門とするプロジャーナリスト集団が活動できる基盤が用意されて欲しいと願っている。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。