先週、英国・マンチェスターの大学でファッション文化論を教えている研究者にインタビューした。ぼくがこの数年追っている新しいラグジュアリーのコンセプトや文化盗用に関する意見を聞きたかった。その際、彼に新しいラグジュアリーを語るに相応しいスタートアップを推薦して欲しいと頼んでみた。
数日したところで、「最近、ロンドンにオープンしたこのブランドは良いと思う」と彼から連絡がきた。サイトを調べて会社の理念や商品デザイン、あるいはその見せ方を確認した。確かにぼくの狙いに的中している。
デザイナーはロンドンの大学でファッションデザインを勉強したハンガリー人の女性でパートナーと経営しているらしい。店舗はブタペストとニューヨークにもある。「あっ、それなら」と思った。
ブタペスト出身でファッションモデルからこの世界に入り、パリを拠点に活躍。その後、心理学、マーケティングを学び、最終的にはベルリンの大学で社会学の博士号をとった知人が知っているに違いないと勘が働いた。現在、この彼女は米国の東海岸でサステナブルファッションのシンクタンクを主宰している。
彼女に「このブランドを知っている?」と聞いたら、速攻で「なんと!私がその会社のブランド戦略をたてたのよ。オーナーを紹介するわ」と返事がきた。
言うまでもなく、ぼくはその紹介の恩恵をあずかった。
世界の複数の点が繋がった。「おっ、やったね!」とぼくは率直に喜んだ。それも考え方や感性的な次元で一つの輪郭が見えたのは、自分がリサーチしてきたことがあるカタチになってきた証拠だと感じた。
それはそれで嬉しいことながら、しばらくして「待てよ」という想いが出てきた。望んでいたことがある程度「阿吽の呼吸」のように回り始めると、「世界は狭いね」と思うようになる。
ぼくも色々な分野で仕事をしてきたが、ある一定の期間、ある一定の量のインプットとアウトプットを繰り返すと「世界は小さい」と実感する。このタイミングは分岐点でもあり、出発点でもある。
「世界は小さい」「世間は狭い」と実感したら、黄色信号が灯ったと思った方がいい。
多くの人は「井の中の蛙大海を知らず」という表現を知っている。自ら知っている場だけで判断し、外の世界を知らない。他人の自慢を批判する場面で良く出くわす。
一方、「世界は小さい」は世界の真理そうなありよう(例えば、6人を介せば世界中の人とつながりをもてるとの仮説「6次の隔たり」)を物語る場合もあるが、努力の達成感を伴う場合も少なくない。後者に問題がある。
往々にして、あるポイントに到達することが「井の中の蛙大海を知らず」に化けることだ。
「スモールワールド!」と思った時は、小さい世界の濃度をもっとあげていくのが楽になり、どうアプローチすれば人のネットワークがより充実するかが見えてきている時だ。誰かと知りあいになろうと思えば、共通の知人がどこかにいるはずだ。だから世界は狭いと思えてくる。
しかしながら、この時点から道なき道を歩むのが面倒になり、あまり意識しないで動く癖がついていくと「世界を知った気になる」。要するに、ある枠組みの向こうにある考え方や感じ方の存在に鈍感になるのである。
もちろん、いくつもの枠組みを横断的に常に生きるのが現実として可能かどうかという問題がある。ただ、向こうにある世界を視界(あるいは意識)の片隅にでも入れておくのは、自らの位置を確認する術として必要である。
そのためにも世界は立体的に見ないといけない。二点だけだと、向こうの世界とは距離の遠いところになる。単に平面で遠いところに行っても、自分の位置は掴めない。やはり上や斜めから見られるポイントが欲しい。それには三点なのだ。
冒頭のぼくのエピソードに照らしてみよう。新しいラグジュアリーの動向としてぼくが今おさえている風景は、あまりに平坦に単純化して考えているがゆえに何らかの錯覚をしているのか? という自問はしてみたい。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。