先週の日曜日、京都・丹後で開催されたイベントにオンラインで登壇した。テーマは丹後という地域のさまざまな資源を掘り起こし、そこに住む人たちがいかに豊かな時間を過ごせるようになるか、である。
以前、ある地方自治体の首長が「地域活性化という言葉はまやかしだ」という発言をしていた。活性化とは日々をお祭りのような空間にすることなのだろうか、と。たまに皆が集まって毎日の憂いから解放されることがあってよいが、それであっても、皆が同じタイミングでそれを欲するわけでもない。
ある人は1人で充実感を静かに味わいたいかもしれないし、ある人は人と身体で触れ合って大きな声で笑いたい。
そういう現実を分かっていても、「町ぐるみで一丸になって活性化」とのキャッチ-な言葉に引っ張られてしまう、もう1人の自分がいるのだ。
日本でややクラシックなイメージを想起するとすれば、名の知れない地域の弱小高校野球部が県予選を勝ち抜き、甲子園に足を踏み入れた時、昼間なのに地元のほぼすべての商店のシャッターがおろされ、テレビでの観戦に夢中になっている…あれが一つの地域の活性化ではなかろうか。
活性化とは、このようにトーナメント方式の試合をひとつひとつ勝ち抜いていくようなイメージを振りまいている。そんな気がしている。
少なくても、一戦一戦で進退が決まるトーナメントではなく、期間の長いリーグ方式が適切な比喩になろうかとも思うが、それにしても地域に勝ち負けという発想を持ち込むこと自体が道を誤らせる。
冒頭のイベントには法政大学経営学部教授の木村純子さんと登壇した。木村さんは欧州や日本の農村政策を研究されている方だ。特に欧州ではイタリアの農村のあり方に詳しい。
「EUでは農業政策ではなく、農村政策という表現をとります」と彼女は話すが、これはどういうことか。
農作物や農産物だけで地域が経済的に自立するのは極めて厳しいケースが多い。だから、そこでの経済合理性を追求すると、農村の役割としてある自然環境の整備や景観美の維持向上という側面へのケアが後退してしまう。
したがってEUでは農村への補助金を「払うべきコスト」として考えている、というのだ。
農村ツーリズムや農産品のブランド化を否定するわけではない。もちろん、そういう企画と実施があっていい。ただ、「そこにしか我々の生き残る道はない」と農村の人々に思わせてしまう社会全体にある圧力が、結果的に自然環境のバランスを徐々に壊していく。
即ち、二酸化炭素排出は地球環境に重大な問題をもたらしているから内燃機関から電気で駆動する自動車に移行しないといけないと声高に話し、その一方で農村の人々も創意工夫で自立策を考えるべきだと主張する都会に住む人たちは、全体を把握した気になっているが何もわかっていない…とぼくは思わないでもない。
パンデミックに突入してのこの1年半、マスメディアやソーシャルメディアでさまざまな意見をみていて少し変わりつつあると思うことがある。
企業論理の優先的扱い、もっといえば一本調子の経済合理性にちょっとばかりの綻びをみつける人が増えてきている。必ずしも、経済合理性に真向から論争を挑もうというのでもない。
性別の問題、女性の働く環境、子どもの学習の仕方、食生活のレベル…議論すべき項目の数は膨大にあり、それらはあまりに広範囲で一見、これらがお互いに関係するかどうかはわからない。
しかしながら、「あれっ、これは企業優先の論理で私個人の生活の論理にのっていない!」とふと気がつくシーンが増えているようだ。それで相変わらず「ビジネスこそが社会問題を解決する」と信じて疑わない顔をしている人の姿がだんだんとぼやけてみえてくる(いってみれば、過去の人として古臭くみえる)。
もちろんビジネスが多くの社会問題を解決する可能性は高い。だが、それを強調しがたいために、それしか道がないと宣伝しまくるのがいただけないのだ。
常に「それ以外の道」が存在してはずだと熟考する姿勢が欲しい。学びへの意欲があり、謙虚さを示すことだ。それでないと傲慢になる。
実は、その文脈で考えると、今、時代への感性が研ぎ澄まされているのは農村に住む人ではないだろうか。とっくの昔から経済合理性やビジネスだけで社会が動いているわけでないことを肌身で知っている人たちだ。
このような人たちこそ頼もしい。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。