教会での葬式に参列した。近所に住む親しかった80代後半の婦人の葬儀だ。2月に自宅で倒れ1か月は意識が戻らず、その後、意識朦朧の状態で入院していたのだが、先週、あの世に逝ってしまった。ロックダウンが解け、少なくても人が集まって葬式ができるタイミングで良かった。参列した人たちの背中をみてそう思った。
ミラノの葬式は実にカジュアルだ。色のついたシャツにジーンズ、スニーカーでまったく問題ない。喪主がネクタイをしていないだけでなくスーツを着ていないこともある。スーツであっても黒ではない。
もう20年以上前になるが、日本で葬式に出る可能性があるからとミラノの店で黒いスーツを探したとき、店員に次のように言われた。
「葬式で黒いスーツを着る習慣は、ミラノではとっくになくなったから黒いスーツは扱っていない」
先週、教会に出かける前に「ジャケットくらい着ていこうか」とぼくが奥さんに相談すると、「こんな暑い日のジャケットは浮くかもしれないから、シャツだけでいいと思うわ」と言われたが、そういうものなのである(女性が黒色の服を着ていることはあるが、それでないといけないという雰囲気はない)。
スーツで隙のない恰好をしている人たちを見かけたら、葬儀屋のスタッフだろうと判断してよいくらいだ(ただし、亡くなった方がアッパークラスに属するか現役で活躍していた場合だとスーツ率は圧倒的に高まるが、老齢の引退した方の葬儀のスーツ率は低い)。
それなりの中流階級の人の葬式にしてこうである。香典の習慣もないからまったくの手ぶらで出かける。
それでもかなり近しい人でも参列しないことがままある。今回もそういう例をみた。
この数年、亡くなった女性と毎日のように会っていたお茶飲み友達の近隣の老婦人は「暑いから行かない。亡くなった彼女のことをもう考えたくもない」と言って参列しなかった。
それもそうだ。意識をなくした時点で「彼女は死んだ」と思い込むようにしてきたのだから。
そういえばと思い出すのだが、成熟した年齢の大人であっても「墓は怖いから行きたくない」と公然と話し墓参りをしない人もいる。多くはないが、「そんなの聞いたことない!」と驚くようなことでもない。
知人・友人の死にまつわることで何となくしっくりこないものを感じるのであれば、そのことを他人に話すのを控える必要はないし、そこを無理して葬式や墓参りをする義理は考えなくていい。いや、亡くなった人の20代の孫でさえ、そのような台詞を吐露していたのを覚えている。
いずれにせよ、ぼくは経緯を詳しく知らないが、葬式のカジュアル化が進んできたのは確かだ。今は誰でもその時の気持ちに率直に従い、そのままの服装で教会に向かい、名前を残したければ記帳するだけだ。
前述したように香典があるわけではないので、教会の入り口に誰かが立っていることもない。
およそ1時間のミサに参列し、時間の余裕があれば、教会の前で霊柩車の出発まで近しい人と雑談し、喪主やその親類にお悔やみを言う。そして拍手でお棺を見送る。
葬式の特徴をもう少し記述するとすれば、亡くなった家族や親類たちがサングラスをかけている場合があることだろうか。疲れもたまっているだろうし、涙をみせたくないのかもしれない。
サングラスの使い方がよく分かる。
ミラノの葬式風景について書いてきた。
誰もが泣き崩れておかしくない葬式という非日常世界に厳格なしきたりを適用しなくなった。その変化の意味をぼくは考えたいのかもしれない。しかし、人に聞きまわって背景を調べたいというという気にもならない。
教会で葬式に参列するたびに「これでいい」と思うだけだ。
ある人の死に想いを馳せる場において、ただただじっとそこに佇んでいる以上の何かができるわけでもない。赤ん坊がいれば、その泣き声が世代交代を暗示させることもあり、特に親が赤ん坊を連れてミサの席を外すこともない(とは言うものの、我が家の息子がまだ1歳半のとき、いったん教会の外に出ざるをえないこともあったが・・・)。
ある意味、葬式のミニマリズムと称しても良いのではないか。家族葬がミニマリズムの一つと考えられるが、公に事前に告知した葬式のオープンなあり方として、ミラノで経験する葬式に「これでいい」と思うのである。
ぼくは欧州の他の国で葬式に参列したことがないので、他と比較することはできない。日本しかない。だが、そんなに比較する必要もないだろう。
それにしても教会の中の広い空間もムッとするほどの日だった。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。