ある国の事情を知るのが難しいことは、イタリアに長く住んできて痛いほどに分かっている。いや、生まれ育った日本のことについても、知らないことだらけだ。だから、住んだこともない国の事情を知るのはとてつもなく敷居が高く、その国について総括的に語るのには大いに躊躇する。
その国の人が個人的に話してくれた内容は理解するのだが、全体的なコンテクストのなかでどの程度の比重を占めるのか、ローカルではどれだけのバリエーションの解釈があるのか、これらがなかなか分からない。
今年に入ってからハンガリーの人とZoomで話す機会が増えた。ぼくはハンガリーが旧ソ連圏を離れた直後にブダペストに滞在したことがあるだけで、その後、一歩も足を踏み入れたことがない。かつて、ビジネスのために何社かの人とメール交換をしただけだ。
それが、この数年のぼくのリサーチテーマである「新しいラグジュアリーの意味」の取材で、複数のファッション関係者と繋がりをもつようになった。
ハンガリーは1千万人程度の人口で小国と称されるカテゴリーに入る。しかし、かつて大国だった時代もあるし、ロシア、トルコ、オーストリアなどに振り回された時代もある。今の若い人は共産主義時代を生きた経験がないが、親や親類などからエピソードは耳にしている。これらのエピソードをどのような人にどのように話して良いか、人によってはこれを迷う。
例えば、あるブランドでは「共産主義時代を思い起こすエレメントは外す」と話し、あるブランドでは「あの時代を知らない世代にとって、ソ連のモチーフが良ければ使いたい」と話すのである。
一方、ハンガリーのオルバン現政権には反民主主義的な動きがある。言論の自由が失われているとの報道もある。
同国の議会ではLGBTに規制をかける法律を施行し、国内の一部や欧州委員会から反発を受けている。欧州委員会は人権侵害にあたるとして法的制裁を検討している。
ぼくはこういう事象についてもファッション企業の人に質問する。ファッション分野はLGBTを推進し、かつ米国でアフリカ系の人権の大切さを訴えたBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動のサポートにみるように、社会問題の先端にたつことが多いからだ。
言うまでもなく、このような動きに関してファッション企業としての意見を聞こうとしても、そう簡単ではない。オフレコの雑談であればよいだろうが、企業のトップが広報担当と一緒に考えを示すのには躊躇する。ただ、インタビューする側としては、彼ら・彼女たちの口が重くなり、表情が硬くなることを知るだけでも意味がある。
しかし、ある政治的な立場なりを公に表明するとなれば、どこの国の人であろうと、それなりに慎重な態度をとるのが普通でもある。よって、彼ら・彼女たちの表情の硬化をもってハンガリーの言論統制を裏付けるとは判断しづらい。殊に、Zoomのように身体の動きが見えにくいと難しい。
足を組み替えるとか、貧乏ゆすりとか、唾をのむとか、人の反応を知るための情報が圧倒的に不足していると、自分がよく知らない文化圏の人を相手にする場合、なかなか自分の判断に確信がもてないものだ。
ヴァーチャルでの対話についての不満を述べても仕方がない。肝心なのは土地勘がない文化、いわばアウェイにおいて相手の発言を多角的にみるにはどうすればよいか?である。
話を聞く相手の数を多くするにも限界がある。確かに母数が少なすぎる話を全体像につなげるのはリスクがあり過ぎる。それならば、「この人なら!」と信頼できる人を数人選んで、ある程度の母数からでてくる意見をフィルターにかけてもらう。
しかし、そもそも「この人ならば!」と思える人を一瞬にして獲得できると思うのは現実的ではなく、それなりの時間を経てのさまざまな交信のなかで候補として浮かび上がってくる。一つの事象に対する考えだけでなく、分野を超えた話題に対する反応で「この人ならば!」と思えるものである。
かといって、何十年もの間、つきあったからといって、今のホットな話題に関する数々の意見をフィルターにかけるに最適な人かと問えば、それも違うのだ。時間をかけて友人になったかもしれないが、残念ながら、友人が常にベストな観察者であり解釈者であるとは限らない。
数か月のつきあいのなかで、多数のテーマに関して意見交換をしたくらいの関係の人が適当だったりする。そういう人をいろいろな国でみつけ関係を保つのは手間がかかるが、ぼくのような立場でこれしか手はないのではないか、と今のところ思っている。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。