若い世代について気になる2つの声がある。一つは「ミレニアル世代とZ世代は新しい感覚をもっているから期待したい」という上の世代のセリフ。もう一つは「上の世代は我々に期待すると言いながら、自分たちでやるべきことをやっていないではないか」との若い人たちの不満だ。「上の世代」というのは、10代後半から20代前半の人たちからみて、文字通りすべての上の年齢の世代を指している。
このテーマについて書こうと思った訳がある。
9月最終週、ミラノは環境問題のイベントが目白押しだった。世界100か国以上から若い人たちおよそ400人が招待され、政府のトップたちに問題解決の提案が行った。その後、11月はじめ英国・グラスゴーにて開催されるCOP-26(国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議)の準備会議があった。
これらのイベントの前哨戦として行われた、セイブザチルドレン主催のオンラインシンポジウムをぼくはみた。アフリカ、南米、アジア、ヨーロッパの若い人たちが、それぞれの地域の事情や公的機関に期待する点を話していた。その場にはバングラデシュとイタリアの環境大臣もいた。
若い人たちの発言は決して攻撃的でなく、環境と人権の問題をバランスよく見ているものだった。なるほど、いいじゃない。
その後、連日のマスメディア報道や若い人たちのブログ、また実際に会議場周辺を歩いて目がつくのは次の表現だ。横断幕、道路の路面や壁への落書きだ。
「グリーンウォッシング」(環境に良いことやっているふりをしているわけ?)「ユースウォッシング」(若い人たちを弁解のために利用しているだけ?)の二つだ。
政治やビジネスのために環境や若い世代が使われてはたまらない、との抵抗だ。
これらの苛立ちを攻撃的な口調で発している(というか、この部分だけをマスメディアが切り取って報道している可能性も高い)のがスウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリさんだ。彼女も前述の会議と街頭デモに参加した。
彼ら・彼女たちは自分たちの次の世代はないかもしれない。そういう焦りを抱いている。本当に次の世代があるのかないのか。誰も分からない。
ただ、そのような気持ちがあるのは確かだ。もちろん、すべての若者とは言わない。しかし、「一部の子たちでしょう?」と思う以上の数の子たちがデモには参加している。
当然、デモに参加していなくても、「ほんとう、どこまで地球はもつのだろう?」と一抹の不安を抱えている。上の世代は行動に基づき、それらの苛立ちに相対する相応の言葉を発しているのか? と問われている。
「まだ物事がよく分かっていない、あの若い子の言うことに世界中が左右されているようで、おかしい」との批判も強い。「世代間の意見の食い違いは歴史上、常にあることだから気にする必要はない」という傍観者もいる。
しかし、そういうセリフを吐く口で「デジタルネイティブの若い人たちは、これまでとはまるっきり違う感覚だから、期待しよう」と話すのだ。まるで若い世代を2つの機能があるロボットのように見ている。
環境問題と若い世代の意識の関係には注意して耳を傾けないといけない。
先日、ヨーロッパのある大学の学長がウェビナーで話していた。
「うちの経営学を学ぶ学生たちも、ソーシャルイノベーションに強い関心を抱いていている」と。
かつて、経営学を学ぶ学生はビジネスでの成功に至るまでの最短ルートに夢中になるタイプが多かったのが、その学生たちが変わってきている。その変化に学長自身が驚いているのだ。
やはり、今の社会のありように不具合があると認識している若い人たちが多い。その不快感と地球環境への不安感が、どれだけ直接に繋がっているかは不明だ。少なくても、不快感や不安感に大人は正面からケアしないといけない。
若い人たちも自分たちですべてできることなんて限定的だから大人に頼んでいる。
それを「若い世代を頼りにしているよ」との見せかけの言葉でごまかそうとするから、ユースウォッシングと批判される。大人はすれ違いの構図を意図的につくっているのではないかとの疑心暗鬼もある。
政治の混乱、自然災害、戦争のさなかに「明日はくるのだろうか?」と思った人々もいた。いや、現在でもいる。パンデミックはまさに現在進行中でアフガニスタンやミャンマーもその一例だ。学校でいじめにあって明日が見えない日本の子もいる。
そうした状況があってなお、気候変動により明日への希望が見えないと憂え、なんとか大人が行動して欲しいとの若い世代の願いが出ている。
彼ら・彼女らの感性に敏感にならないといけないと自省している。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。