デザインの祭典がインテリアデザインの文脈から離れて独り歩きしはじめたことで、デザインという言葉だけに惹かれてきた人が増加する。まさしく、この現象がミラノデザインウィークの注目度を後押しする。
ここで大きくポイントは2つある。
ソーシャルイノベーションにおけるデザインの活用やデザインシンキングの普及により、デザインのエキスパートではない人たちもデザインの世界にアプローチするようになってきた。こうした人たちが「デザインの祭典」に足を向けるわけだが、彼らはデザインの定義に含まれてきた審美性や美意識についてあまり意識してこなかった。
したがって、インテリアデザインにおけるそれらの要素を読み解こうとしない。(「誤解」を恐れずに表現するなら)審美性や美意識とは関係なくデザインと付き合えると思ったら、ここには審美性や美意識の話題が溢れている。そこで大いに戸惑う。
「美しい、美しくない」と感覚で掴むことが、何かを議論・判断する際の根底にないと自分の考えのオーナーシップがとりにくいはずだが、他人の声や定量的なデータを第一の信仰対象としていると、自分の足元の弱みに気づかない。または気づかないことにしてしまう、という不誠実な態度に走る。
もう1つは、インテリアデザインがファションや食と並んで人の生活の中心にある意味を忘れている。自分のビジネス領域がクルマであろうが、インフラ関係であろうが、人々が日々の生活に何を求めているかを知らないですむわけがない。
しかしながら、例えば電子部品を作っている人は、インテリアデザインは「関係ない」と言いがちだ。そこにあるリンクを見いだすことができなかったら、敗北感を抱くくらいに覚悟して良いはずなのに。
いずれにせよ、それもこれも、「ミラノデザインウィーク」ブランドの肥大化による現象だ。