1年間、ドイツの大学のオンラインコースでデザインを勉強してみた。だが、更に学びを深めたいと留学先を探しはじめる。米国は候補から真っ先に外れた。得られる奨学金の金額を勘案すると授業料が高すぎた。国立大学のミラノ工科大学が、こうした検索のプロセスで学びたい分野との複合で浮上してきたというわけだ。
ミラノに来て半年だ。郊外に住み、やはり市内の中心からやや外れた場所にあるキャンパスに通うアディティは、「浮かれた生活」からは距離をもっている。
「私は機能的な人間なので、お洒落のために服にお金を使う趣味はないの」と話す彼女は、機能的な服を好み、余計な服を買うこともしない。ミラノのファッションのトレンドを見歩くなど無縁の習慣である。「あまりに選択肢があり過ぎて困る。それに高価すぎる」とも話す。
アディティとイタリアについて話していると、ぼくが日本との比較でみているイタリアと異なった評価があって面白い。
「イタリア人はイタリア語で通じる人同士で固まる傾向があって閉鎖的と感じる」
そりゃあ、多数のローカル言語と英語が共存しているインドからすれば、そうだろう。ぼくはイタリア人を責める気にまったくなれない。
「イタリアではカフェや車内で偶然隣同士になった見知らぬ人たちが会話することが少ない」
日本人のぼくからすれば、イタリア人はコミュニケーション力を充分に発揮しているとみえる。あえて言えば、地方とミラノのような都会を比べると、ミラノの方が澄まし込んでいる。その点で彼女の指摘は正しい。
アディティによれば、インドではコミュニティのなかに見知らぬ人をひき込む力がもっとある。旅人を自宅に受け入れお茶をご馳走することが珍しくない。しかしながら、彼女はイタリアでそういう経験を未だあまり得ていないという。
「やはり、私がイタリア語を話せないので、コミュニティに受け入れてもらえないのでしょうか…」
多分、それはあるかもしれない。ただ、田舎町にいけば「奇跡」は簡単に起こりうる。