社会・その他

銀座名物「歩行者天国」50年 コロナ禍で次代へ伝える意義 

 道路を規制し車の進入を禁じる「歩行者天国」が東京・銀座などで始まってから、今月で50年。交通事故防止や観光客・買い物客を呼び込む目的で導入され、人々の生活に潤いを与えてきた。新型コロナウイルスの感染拡大でにぎわいが失われる中、歩行者天国の代名詞となった銀座の関係者は「歩道に密集するのを緩和するメリットがある」と、改めてその効果に期待を寄せる。(荒船清太)

 《人間が道路を奪い返す》《半日では物足りぬ》

 昭和45年8月2日の日曜日。銀座、浅草、新宿、池袋の4カ所で行われたホリデー・プロムナード(休日の遊歩道)。翌3日付のサンケイ新聞朝刊は、1面トップでこんな見出しを掲げて、当時の熱気を伝えた。

 歩行者天国は、人と車を分離し安心して買い物や散策を楽しめるようにと、当時の美濃部亮吉・都知事の号令で実現した。当時は、自動車の急増で交通死亡事故が社会問題化。前月に米ニューヨーク5番街で世界初の歩行者天国が行われたことも追い風になった。通りには人があふれかえり、パラソルやイスが並べられた。警視庁の調べでは、午後9時までに4カ所で計78万5千人が訪れたという。

 「車道に出るたびに『危ない』と叱られていた。本当にいいのかな、と恐る恐る歩いた」。当時小学6年だった、銀座にある「渡辺木版美術画舗」の3代目店主、渡辺章一郎さん(61)は振り返る。「どこまで行けるか」と日本橋まで歩き、帰路についた。銀座のメインストリートの中央通りは「こんなに広かったのか」と感動したという。

 実は、銀座の車道が人に「占拠」されたのは、この時が初めてではなかった。安保闘争で若者がバリケードで道路を封鎖、デモを行っていた。銀座育ちの原弘美さん(65)は「幼いころに父親と一緒に中央通りに来た時、警察官が持っていた盾に昆虫のハチの絵が書いてあった。後から、警視庁の第8機動隊を示す印と知った」と話す。

 戦後が色濃く残る時代から、平和の時代へ。歩行者天国は転換を象徴する存在となったが、いいことばかりではなかった。46年7月に銀座三越の1階にマクドナルドの1号店が開店すると、食べ歩きやごみのポイ捨てが問題化。高橋洋服店社長の高橋純さん(71)は「(歩行者天国のある)日曜日は、食べ歩きの客が汚すからと、閉めた店もあった」と、振り返る。

 ただ、その後、ゴミ拾い活動も始まるなど、歩行者天国は銀座の風物詩として定着した。現在も土日祝日で実施され、「銀座の商人には、親から受け継いだ商いを孫子(まごこ)の代まで続けようという矜持(きょうじ)がある。だから歩行者天国も続いたんだ」。高橋さんは胸を張る。

 コロナ禍で歩行者天国が一時中止となるなど、銀座の客足は今も回復途上だが、高橋さんは「歩行者天国だから、歩行者が歩道に密集しない。銀座が一番安全だ」。江戸時代から店を構える銀座三河屋の神谷修社長(75)も「時代にあわせて変わることで続いてきた魅力は、50年後も変わっていないはずだ」と力を込めた。

 歩行者天国は各地に広がりを見せ、若者文化の発信地にもなってきた。

 昭和52年に歩行者天国が始まった東京・原宿では、派手な衣装に身を包んで踊る「竹の子族」「ローラー族」と呼ばれた若者が登場。平成に入るころにはホコ天(歩行者天国)でアマチュアバンドが演奏する「バンドブーム」が起き、活況を呈した。

 一方で、騒音やトラブル、ごみ問題なども深刻化。近隣からも苦情が相次ぐなどしたため、原宿周辺の歩行者天国は平成10年までに全面的に廃止された。

 群衆を狙った事件も起きた。平成20年6月、東京・秋葉原でトラックが歩行者天国に突っ込み、乗っていた男がナイフで通行人らを次々と殺傷する通り魔事件が発生。秋葉原ではその後、2年7カ月にわたって歩行者天国が中止され、防犯カメラが設置されるなどの対策が取られた。

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