高論卓説

人間力でスズキをグローバル企業にしたカリスマ経営者・鈴木修氏退く

 「ハート・ツー・ハート」。6月に相談役に退く鈴木修・スズキ会長(91)は、この言葉をよく口にする。最初に使ったのは、『俺は、中小企業のおやじ』(鈴木修著・日本経済新聞出版社)によれば、1983年、インド進出の基本契約を締結したとき、インドでの会見の席でだった。「人間は皆同じ。言語、風俗、習慣、環境が違っても、心と心が通じ合うことが重要だ」と述べた。(永井隆)

 人間関係を築きながら、インドをはじめ世界に切り込み、国内では軽自動車市場そのものを育て上げた。

 中央大学法学部を卒業して銀行員をしていたところ、スズキ第2代社長の鈴木俊三氏に見いだされ娘婿に。スズキ入社は軽自動車税が創設された58年。入社後、豊川工場(愛知県)建設や旧ホープ自動車から製造権を得て軽四輪駆動「ジムニー」を商品化してヒットさせるなど頭角を現す。

 もっとも、70年代に入ると国の排ガス規制からスズキは苦境に立たされていく。当時、スズキだけが2サイクルエンジン専業だったため、炭化水素の発生量が多く、規制対応ができなかったためだ。

 74年9月には専務の立場で修氏は国会に呼ばれ、旧社会党の土井たか子氏らから厳しい追及を受ける。霞が関、永田町を陳情して回り、目白の田中角栄邸も訪れた。この結果、規制の実施は延期され、ここで人脈も得る。

 社長就任は78年。48歳だった。第3代社長が倒れたための緊急登板だった。就任後、最初のほぼ4年間で、修氏は現在のスズキにつながる決断と基礎工事を行う。79年に軽自動車「アルト」を全国統一価格の47万円で発売する。大ヒットさせてスズキは苦境を脱し、4サイクルエンジン開発、さらに小型車開発に着手していく。

 米ゼネラル・モーターズ(GM)との提携は81年。パキスタン進出に続き、前述のインド政府と合弁契約を結んだのは82年のことだ。

 現在もスズキの国内販売の8割を担う自動車修理業者などの「業販店」との関係も、強固になっていく。スズキと業販店には資本関係はなく、結び付けているのは“人間・鈴木修”である。全国各地の一流ホテルで定期的に開かれる「副代理店大会」には、販売成績の高い業販店の店主が招かれる。

 勉強会、歌謡ショーの後の宴会では、修氏はビールを注いで回り、時には店主に同伴した夫人を抱きしめる。会場は盛り上がり、修氏は業販店主たちのアイドルになる。ただし、宴会が終了すると、「何番テーブルの〇〇さんは、どうやら他社の車も熱心に売っている。フォローせよ」と営業スタッフに指示を出す。氷のような冷静さを持つのも特徴だ。

 “税の神様”とうたわれ、気難しいことで知られた自民党の故・山中貞則氏からも、「修君が言うんじゃ仕方がない」などとかわいがられた。

 その一方で、経営が破綻していくGMに代わって資本提携した独フォルクスワーゲン(VW)とは激しく対立。信頼関係が壊れたとき、どんな強大な相手にも正面から牙をむく。VWとは関係を解消し、現在はトヨタ自動車と提携関係にある。

 人間力を基本に、43年間も走り続けたグローバル企業の経営トップは他にはいない。「だからお前は駄目なんだ」と筆者は修氏から何度も叱られた。ただし、次のようにも言われた。

 「誠意を持ち、数字で説明し、筋を通して正面から話す。もちろん、お互い同じ人間じゃないかという心を持て。すると、ハート・ツー・ハートは生まれるものだ」

【プロフィル】永井隆 ながい・たかし ジャーナリスト。明大卒。東京タイムズ記者を経て1992年からフリー。著書は『移民解禁』『EVウォーズ』『アサヒビール 30年目の逆襲』『サントリー対キリン』など多数。群馬県出身。

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