キャリア

知らない人間は論外 稀代の政治家・田中角栄が若手に欠かさず調べさせたこと (2/2ページ)

 田中における、意余ってということは、デカルト流に言えばよく考え抜かれているということになる。説明はするが、なかなか結論が見えてこないビジネスマンなども少なくない。要領を得ない話をして、交渉事がうまくいくはずはない。森羅万象、物事のポイントは、枝葉を取れば意外と簡明にできていることを知りたい。

 長話は、誰もが嫌うことを知っておきたいということでもある。

 人の心をつかむ切り札は“フルネーム”

 相手のフルネームを

 頭に叩き込め。

 親近感、信頼感が生まれる。

 田中角栄は官僚の経歴などを頭に入れておき、それを存分に“利用”、これを有力な武器として官僚を掌握したものだった。

 しかし、そのうえで田中が“切り札”にしていた手法は、相手の名前をフルネームで覚えていたことだった。

 人間は不思議なもので、姓だけで呼ばれるより、フルネームで呼ばれることで、妙な親近感、信頼感を覚えるものである。

 大正時代にわが国10人目の総理大臣となった「平民宰相」の原敬は、自分を支持する県市町村議会の議員の名前を、すべてフルネームで暗記していた。自分の選挙の手足となる彼らと向き合うときは、相手をまずフルネームで呼びかけ、親近感をより盛り上げたというエピソードもある。

 一方、田中もこの“手”をよく使った。記憶力が抜群の田中は、10年近く会っていない選挙区のバアサンに会っても、たちどころに例えば「新田トラ」さんなどと呼びかけ、相手を感慨させてしまうことが多々あった。「新田トラ」さんは、あの田中が自分の名前を10年近く経っても覚えていてくれたと感激、選挙にでもなれば隣近所から選挙区内の知り合いまで、「田中先生に是非1票」と頼んで歩くことになるのである。こうしたことがあるから、田中の選挙区は強力地盤になったということだった。

 「そんなことは分かっている。下のほうの名前だ」

 さて、フルネームについてだが、先の原敬より、じつは田中が一枚上手であった。フルネームと言われても、物忘れをすることもある。ノドまでは出かかっているが、名前が出てこない。ところが、田中はこんなやりとりのなかでフルネームを引き出したのである。

 「やあ、しばらくだな。元気か。あんたの名前が出てこんのだ」「鈴木ですよ」「そんなことは分かっている。下のほうの名前だ」「一郎です」「そうだ。思い出した。鈴木一郎さんだった」

 なんていうことはない。フルネームすべてを忘れてしまっていたのだが、下の名前だけを忘れたフリをして、フルネームを引き出してしまった凄いテクニックである。あとは、記憶力抜群の田中である。「鈴木一郎」とのこれまでの関係を思い出すことに、時間はかからない。

 「たしか、息子さんが二人いたな。もう嫁ももらっただろう」などと一気に親近感を増幅させ、先の「新田トラ」さん同様、「鈴木一郎」さんもまた新たに田中支持への思いを強くするといった具合になっていった。

 しばらくぶりの相手をフルネームで呼ぶことは、なかなかの効果があることを知っておきたいものだ。うまくいかなかった人間関係が、これで氷解する可能性がある。

 「歴史」重視……人を取り込むからめ手

 相手の

 「歴史」を

 見てから

 判断すべし。

 田中角栄の対人関係を見ていると、頭から見くびった相手は別にして、常に全力投球で向き合っていたのが特徴的だった。この際の全力投球とは、相手のことを事前に調査し、徹底的に把握しておくことである。その手抜き一切なしの下調べは、経歴、生活状況など多岐に及んでいた。とくに、相手の来し方などの「歴史」を重視したものだった。

 例えば、政界に入る前の事業家時代にも、商売相手のことは徹底的に事前調査していた。田中はこう言っていた。

 「オヤジは酒飲みだが、長く商売をやってきている。息子はいささか甘いが性格はいい。誠実に商売をしているのが分かる。ここまで調べて、会ってみて間違いないとなったら商談に入る。これで、まず相手を見間違うことはない。ワシは、常にその人の「歴史」を見て判断することにしている」

 地域に溶け込むためには、

 諸々の歴史を

 知ってから取り組め。

 その「歴史」重視は、政界に入っても変わらなかった。若き日の自らの新潟での選挙を振り返って、田中派若手議員あるいは田中派からの候補者に、こう言い置いたことがある。

 「いいか、例えば選挙区の神社の石段はなぜあるのか、未だどんな由緒に基づいているのかなど、正確に歴史を説明できないようで、なんで『郷土を愛している』などと口にできるんだ。有権者の眼力は凄いぞ。甘く見るな。選挙区の歴史を知らないような奴に、多くの支持が来るワケがない」と。

 相手に自分の諸々の歴史を知られてしまったら、弱点を握られたに等しい。田中はこうした“からめ手”でも、人を取り込んでいったのだった。

 小林 吉弥(こばやし・きちや)

 政治評論家

 1941年、東京都に生まれる。早稲田大学第一商学部卒業。的確な政局・選挙情勢分析、歴代実力政治家を叩き合いにしたリーダーシップ論には定評がある。執筆、講演、テレビ出演などで活動する。著書には、『田中角栄 心をつかむ3分間スピーチ』(ビジネス社)、『田中角栄の経営術教科書』(主婦の友社)、『アホな総理、スゴい総理』(講談社+α文庫)、『宰相と怪妻・猛妻・女傑の戦後史』(だいわ文庫)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『新 田中角栄名語録』(プレジデント社)などがある。

 (政治評論家 小林 吉弥)(PRESIDENT Online)

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