■右肩上がりの時代、人は大いに飲んだ
新橋駅前開発で、駅前にビルが建つことになり、仮店舗として現在の烏森神社沿いの店がオープンする。1968年、幸一が店の従業員として働いていた清子と結婚した年だ。清子は大阪・河内の商人の子供で、いまの羽曳野市で育った。
「商売は嫌じゃなかったね。カウンターでお客さんの話を聞くのも、私は好きだったよ」
清子は、最後の一日もいつもと同じように、幸一とは対照的に、大きな声で笑いながらカウンター越しにセイロで鶏シューマイを蒸し、フライパンで炒め物を仕上げていた。続々と訪れる客の応対も手馴れている。
「昔の思い出? ちょうど結婚したばかりのころかな、三島由紀夫が来てたね。私が『あの人、三島さんに似ているね』って言ってたら、本人だったの。お店に『三島先生はいらっしゃいますか』って電話来て、びっくりしちゃったよ」
店の並びには三島が常連だった料亭「末(すえ)げん」がある。そこに行く前に立ち寄ったのだろうか。店の歴史が、昭和史とリンクする。
「よく僕が思うのは」と、仕込み中の幸一が口を開く。
「新橋はある時まで霞が関城下町だったんです。国鉄と銀座線が通っていて、官庁がある虎ノ門から新橋まで来やすかったんですよ。官庁があれば、営業だなんだで、そこに民間の人たちも通うようになる」
人が集えば、オフィスができ、飲みに出る人々も増える。時代は右肩上がりである。彼らは大いに飲んだ。1980年代に入り、女性の社会進出が本格化すると女性をターゲットに「酎ハイ」が売り出され、「蛇の新」にも女性がやってくるようになった。
■かつての新橋に存在した「無根拠な希望」
閉店が近づいてきた、3月のある日、隣にいた常連客がこんな話をしてくれた。2016年に勤めていた印刷会社で60歳の定年を迎え、リタイア生活を謳歌しているという男性である。
新橋の思い出を聞くと、よくぞ聞いてくれたとばかりに滔々と語ってくれた。
「バブルの時代は、ここでお腹を満たしてから別の店に行ったんですよ。そこは旧大蔵省の官僚と、銀行の担当者が来る店です。彼らの言葉に耳をすますと景気動向がわかる。ここで先を見極めて、僕は株を買いましたね。新橋で景気良く飲んでいる会社の株は当たり株。結構、儲(もう)けさせてもらったな。あの感じ、わからないでしょう」
私はその話を苦笑まじりに聞くことしかできなかった。2011年の東日本大震災と福島第一原発事故、そして2020年を直撃したコロナ禍でも痛感したが、人が財布の紐を緩める時は、未来への希望がなんとなくでもある時だ。
そこに確かな根拠は必要ない。前の時代より、今の方が良くて、未来はさらに良くなる。無根拠な希望がそこにあるとき、人は大いに飲み、街に出て語り合う。
1995年の阪神大震災とオウム真理教事件、2008年のリーマン・ショック、2011年、そして2020年。賃金は上がらず、数年ごとに「歴史的な危機」が訪れる。その度に希望が見えなくなる時代には沈黙が蔓延(はびこ)っていく。
「誇りは『蛇の新』の暖簾を守ったということです。三代目に継がせることはできなかったけど、僕は守りました。あとは女房に感謝です。2人で喜びも悲しみも共有できた」
幸一がしみじみとそんな話をしていた、と清子に告げると、彼女はくるりと幸一の方を向き、「もっと感謝しろ」と腰に手を当てて胸を張った。