社説で経済を読む

「命か五輪か」と迫るメディアの不見識

 東京五輪の開催まで50日を切ったというのに、日本ではいまだに「開催の是非」をめぐって不毛な議論が続いている。

 新型コロナウイルスの感染拡大は、ワクチン接種がようやく軌道に乗りはじめたことで、収束への期待も膨らみ始めた。だが、メディアばかりか、国会でも一部野党の議員から「国民の命と五輪開催のどっちが大事か」といった信じがたい議論が聞こえてくる。

 不毛な「二択」議論

 次元が違う問題を並立させ、政府に二者択一で「開催中止」を迫る考えは不見識というほかなく、理解に苦しむ。日本にとっては「どちらも重要」であることは当たり前ではないか。

 菅義偉首相は、五輪開催の意義はもちろん、国際社会に対する開催国としての責任の在り方についても、国民に対して明確に語るべきだ。

 産経は5月28日付主張(社説)で「政府や都、大会組織委は『なぜ五輪を東京で開催するのか』という根本的な問いに真摯(しんし)に答えてきたか」と問いかけている。

 ところが多くの新聞・テレビは、日を追うごとにヒステリックな「中止論」ばかりをあおっている。

 NHKは5月17日、海外選手の事前合宿について、コロナ禍の拡大を懸念する自治体から受け入れ辞退が相次いでいると報じ、「交流の制約が厳しく対策の負担も大きいと戸惑いの声もあがっています」とコメントした。

 しかし、この「戸惑い」の主が誰かには触れていない。NHKとしての印象を述べただけだというのなら、公正中立を自任する「公共放送」の看板が泣く。

 今月1日、事前合宿第1陣としてオーストラリアの女子ソフトボールチームが受け入れ先の群馬県太田市に入った。このときもNHKは代表的コメントとして、「誇らしいが怖い」という市民の声を紹介していた。

 受け入れる自治体の側にもさまざまな意見があるのは当然のことだ。しかし、この回答から容易に想像できる質問は、「外国選手の受け入れは怖くないか」であろう。海外選手は新たなウイルスを持ち込む怖い存在-。聞き手側に、そんな先入観はなかっただろうか。

 豪州のコロナ対策の厳しさは日本の比ではない。怖いのはむしろ彼女たちの方だろう。聞き手は自らの偏狭さを恥じるべきだ。宿泊先や練習場などでの厳しい感染対策や管理についても、否定的な報道が目に付いた。

 民放テレビのワイドショーに至ってはもっと露骨だ。多くの世論調査で五輪開催の中止・延期を求める声が大勢であることは事実だが、「こんなことで五輪開催などできるのでしょうか」という無責任なコメンテーターの発言ばかりが垂れ流されている。それがまた、視聴者の不安心理を刺激する悪循環をもたらしていることには思いが至らないのだろうか。

 二重基準の朝日新聞

 菅首相が「開催権限はIOCにある」と述べたことで、「開催で感染が拡大したらだれが責任を取るのか」との声もメディアから相次いでいる。むろん感染防止対策の責任は政府にある。分かりきったことだ。

 東京五輪開催について、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長は2日、国会で「今の状況で(五輪を)やるっていうのは普通はない」と発言した。その主旨は無観客を含めた開催規模の最小化と感染体制の強化を求めた後段部分にあったのだが、見出しでは「尾身会長も中止を提言」と報じたメディアもあった。

 新聞では朝日が開催中止要求の急先鋒(せんぽう)である。5月中の社説の見出しだけ並べても、「開催ありき 破綻あらわ」(12日付)、「中止の決断を首相に求める」(26日付)、「難局乗り切る戦略示せ」(29日付)と手厳しい。

 26日付では「誘致時に唱えた復興五輪・コンパクト五輪のめっきがはがれ」「政権を維持し、選挙に臨むための道具になりつつある」と批判を連ね、「社会に分断を残し、万人に祝福されない祭典」と決めつけている。

 その朝日は東京五輪のオフィシャルパートナーでもあり続けている。その矛盾を突かれるや、26日付の社説とタイミングを合わせるように、自社ウェブサイトに以下のような社としての見解を掲載している。

 「オフィシャルパートナーとしての活動と言論機関としての報道は一線を画します」としつつ、「今後も引き続き紙面や朝日新聞デジタルで、多角的な視点からの議論や提言に努めます」という。

 これをダブルスタンダード(二重基準)と言わずして、なんと言うのか。(産経新聞客員論説委員 五十嵐徹)

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