障害を理由に科学分野から排除されない社会の実現を目指し、支援のガイドライン構築やバリアフリーな実験室の開発を目指す動きが始まっている。開催中の東京五輪、続くパラリンピックは、大会のビジョンに「ダイバーシティ&インクルージョン(多様性と調和)」を掲げる。障害の有無を含め、人々が互いに多様性を尊重し、異なる価値観や能力を生かす考え方だ。社会のあらゆる場面で不可欠な取り組みで、科学も例外ではない。
ホーキング博士だけではない
障害を持つ科学者というと多くの人が思い浮かべるのは、2018年に亡くなった英国の宇宙物理学者、スティーブン・ホーキング氏だろう。ブラックホールや相対性理論に関する革新的な研究で知られ、一般に科学を啓蒙(けいもう)する活動でも有名だ。全身の筋肉が徐々に動かなくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)を20代で発症し、闘病しながら研究活動を続けた。
世界最大規模の学術団体である米化学会の資料によると、酸素やマグネシウム、カルシウムなど多くの元素の発見に、視覚や聴覚、身体などさまざまな障害がある科学者が貢献した。ヘリウムの発見者の一人であるフランスの天文学者、ピエール・ジャンサンは、幼少期の事故で足に障害が残り、学校に通えない時期もあったが研究者となり、天体観測のために船で世界中を旅したという。
こうした研究者らの功績は、多様な人生経験や視点を持つ人材の参画が、課題解決や新たな価値創造につながることを示している。
しかし、現実に障害を持つ子供たちが理工系分野に進学し、さらにその先の研究キャリアを積むには大きな壁がある。施設のバリアフリー化など物理的環境の整備や、実験や野外実習など障害によっては困難が伴う場面で支援する体制が不可欠だ。
実験室のバリアを解消
東京大の並木重宏准教授は障害者が理工系分野で活躍できる環境づくりを目指し、バリアフリーな実験室のモデルを開発している。
並木氏の研究室には、障害者が従来の実験室を使おうとするときにどのようなバリア(障壁)があるのか課題を洗い出すため、一般の実験室によくあるタイプの棚付きの実験用作業台や流し台が並ぶ。
立位か座面が高い椅子で使うことが想定されている作業台は、車椅子には天板の高さが合わなかったり、奥側にある棚に手が届かなかったりする。流し台は、下部に前輪や足が入る空間がなく、近づけない。
実験中の安全を守る設備にも問題がある。化学実験などを行う施設には、誤って有害物質を浴びてしまったときに一気に大量の水で洗い流す「緊急用シャワー」が設置されているが、車椅子からは水を出す引き棒に手が届かない。
並木氏自身が車椅子を使っていることもあり、車椅子利用者にとっての課題を先行させているが、学内外の障害者の協力を得て、さまざまな障害によってどのようなバリアがあるかの検証を進める計画だ。
また、実験に必要な身体能力の分析を進める。実験には、必要な物品を棚から取って運ぶ▽試薬の瓶のふたをひねって開ける▽プレパラートを作って顕微鏡に設置する-などの多種多様な動作が伴う。どのような身体能力を使っているのかを詳細に調べ、必要な支援を明らかにする。
天板の高さが変えられる机や立位がとれる車椅子や、物品を運んでくれるロボットなどの支援技術も評価の対象とする。
支援ガイドラインを作成
欧米の学会や大学などは、障害者が実験や実習に参加できるよう、支援や設備の改善について指針を定めているところが多くあるという。
例えば米化学会は、実践的な方法を詳細にまとめている。消火器や緊急シャワーを利用できるようにする▽試薬や実験装置に点字ラベルをつける▽車椅子が通行できるスペースを確保する-といった具合だ。望ましい作業台や流し台のデザインやサイズも掲載している。
このほか、実験の動作が難しい障害学生に支援者をつける場合は、実験の計画や結果データの解釈といった本質的な部分を助けてしまうと、学習の機会を奪うことになるため、支援者は学生の指示に従って動作を補助するだけで、課題のヒントを与えてはならないと注意を促している。
並木准教授によると、こうした支援ガイドラインは日本ではほとんどないため、今後の研究を通して作成し、誰でも利用できるよう公開する計画だ。
また、理工系分野で活躍している障害者について、学生時代や研究機関などに就職してからの経験を調査し、事例集としてまとめる。組織が支援を考える際や、若い障害者が進路を検討する際に参考にできるようにするためだという。
並木氏はもともと虫を対象にした生物学の研究者だったが、進行性の難病を発症して歩行が難しくなる中で、一度は研究者の道をあきらめかけた。しかし、電動車椅子を使いながら活躍している研究者らの存在を知って、自分も研究者を続けようと勇気づけられた経験がある。
並木氏は、「病気や障害が、科学の道をあきらめる理由になってはいけない」と話す。障害者が自由に科学分野のキャリアを目指せる環境の構築に向け、研究の今後が期待される。(松田麻希)