話の肖像画

    評論家・石平(12)北京大学で没頭した民主化運動

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    《1976年の毛沢東主席の死によって約10年続いた文化大革命(文革)が終わり、77年からは大学志願者の統一入学試験も再開された》

    大学入学を目指す者が受けなければならない統一試験です。僕は80年の7月に受験しました。ずっと試験が中止されていたので当時は、30代、40代の受験生や、父子一緒に受けた、なんてケースも珍しくありませんでしたね。

    受験は文系と理系に分かれており、僕は文系を志望しましたが、(物理学者だった)父親に猛反対されました。というのも(文革のような)政治運動が起きると真っ先にターゲットとされるのは文系の学生だったからです。父はそのことを心配していました。結局、僕は、父の説得に従いませんでしたけど…。

    文系の試験科目は、国語、数学、歴史、地理などでした。「政治」だけは文・理系ともに必ずある。要は、共産党の方針をどれだけ理解しているのか、を見られるわけです。だから、(共産党機関紙の)人民日報の社説などを懸命になって覚えましたよ。

    試験の点数が出ると、3つまで志望大学を書いて提出します。僕は最難関の北京大学を志望し、入学を認められました。学部は哲学部。こちらは希望は出せず、大学側が決めるのですが、まったく不満はありません。その年、僕の学校から北京大学へ入学したのは僕ひとりだけでした。母校では僕の合格を知らせる張り紙が出されたり、親の親類にも伝わり、祝福されたことを覚えています。

    当時、住んでいた成都から北京までは、列車で48時間かかりました。安い硬い座席で丸2日。初めて見る首都は、スケールが桁違い。見るもの、聞くもの、カルチャーショックの連続で。9月に入学、冬になって、池が凍るのも、雪が降るのを見たのも、北京が初めてでした。

    《当時の大学はすべて国立で学費も寄宿費もタダ。2段ベッドが4つの8人部屋には、共有の机があるだけだった》

    80年代は、文革が終わって「民主化運動」の嵐が吹き荒れた時期。北京大学は民主化運動の拠点のひとつでした。一応、夜9時が消灯時間なのですが、そんな時間に寝られるわけがありません。同室の学生が集まって、すぐに熱い議論が始まる。もちろん話題は「政治」です。月に1度くらいは、皆でカネを出し合い安い酒を買ってきてそれを飲みながら…。

    首都北京出身の学生らが、堂々と「毛沢東批判」をブチ上げていたことは述べました。僕の〝洗脳〟がようやく解けたのは1年くらい後だったでしょうか。学生たちの間では文革期の過酷な体験を文学などの形で回顧する「手抄本」と呼ばれる小冊子が流布して広く読まれていました。

    そこには、親の世代や自分たちが経験した阿鼻(あび)叫喚の地獄の様子が生々しく書かれている。読んでいるうちに僕もウソだとは到底思えなくなったのです。

    僕らは、連日のように討論会や学習会を開き、民主化運動に没頭することになります。他の大学の学生や若い教員も加わりました。ただし、共産党を打倒するのではなく「共産党を民主化する」のが目的。これからの中国はよくなる。それを自分たち学生の手によって実現させる、という意気込みに燃えていたのです。(聞き手 喜多由浩)

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