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負けたら最後…血で血を洗う、凄絶だった戦国時代の御家騒動5選

御家騒動といえば、江戸時代の専売特許のように思えるが、戦国時代にも多々あった。それは親子間、兄弟間で家督を争うという悲劇だった。そして、ほとんどの場合は、負けた方が殺されるという凄絶さだった。今回は5つの御家騒動を取り上げ、考えることにしよう。

※画像はイメージです(SankeiBiz編集部 mitsuhiro masuda)
※画像はイメージです(SankeiBiz編集部 mitsuhiro masuda)

上杉景勝VS上杉景虎

天正6年(1578)に上杉謙信が没すると、養子の景勝(長尾政景の子)と同じく景虎(北条氏康の子)が上杉家の家督をめぐって争った。

そもそも謙信は独身生活を続け、ついに妻を娶らなかった。それゆえ養子を迎えていたのである。なお、「謙信女性説」なるものは、トンデモ説にすぎない。

2人が後継者の地位を争ったのは、謙信が後継者の指名をしていなかったのも一因だった。なぜ、謙信が指名していなかったのは不明である。

その後、景勝は春日山城(新潟県上越市)に入り、景虎は御館(同)に拠って戦った。この戦いは、景虎の拠った御館にちなんで、御館の乱と称されている。

最初は景虎が戦いを有利に進めたが、甲斐の武田勝頼が景勝に与すると形勢は逆転。景勝は、優位な立場となった。

翌天正7年(1579)、ついに御館は落城し、景虎の正室は自害。景虎の嫡男は上杉憲政とともに逃亡したが、その途中で殺された。

景虎も北条氏を頼り小田原城(神奈川県小田原市)に向かったが、堀江宗親によって殺害された。こうして景虎一派は、完全に根絶やしにされたのである。

通常、子がない場合は家督を継ぐ前提で、養子を迎えるのだが、謙信はなぜか2人も迎えてしまった。これは、さすがに大失策だったといえるだろう。

毛利元就VS相合元綱

明応6年(1497)、毛利元就は弘元の次男として誕生した。元就は次男だったので、そもそも後継者になる予定ではなかった。

しかし、永正13年(1516)に毛利家の家督を継承した兄の興元が亡くなると、幼い子の幸松丸が毛利家の家督を継ぎ、元就はその後見人となったのである。

大永3年(1523)に幸松丸が夭逝すると、重臣の推挙によって、元就が毛利家の家督を継いだ。ところが、元就の家督継承は、必ずしも歓迎されなかったのも事実だ。

翌年、重臣らの一部が元就の異母弟・相合元綱(あいおう もとつな)を擁して反抗した。その背後には、当時、強大な勢力を誇った出雲尼子氏の支援があった。

結局、元就は家臣の志道氏らの支援もあって、元綱一派を粛清・自刃に追い込むことに成功した。そして、家臣団に対して、元就への忠誠を誓わせたのだ。

その結果、元就は家臣団の結束を強め、中国地方に覇を唱えることに成功した。元就が「梟雄」と恐れられる所以である。

この場合、元就か尼子氏のバックがいる元綱かという二者択一だったが、多くの家臣は尼子氏に併呑されるのを恐れて、元就に与したといえよう。

今川義元VS玄広恵探

天文5年(1536)、今川氏輝(氏親の子)が亡くなると、出家していた弟の栴岳承芳(せんがくしょうほう)を還俗させて義元と名乗らせ、今川家の家督を継承させた。今川義元である。

この家督継承を積極的に進めたのは、氏親(氏輝、義元の父)の正室・寿桂尼や太原雪斎といった重臣である。太原雪斎は、今川氏のブレーンでもあった。

一方で、今川氏の重臣の福島(くしま)氏は、玄広恵探(げんこうえたん:氏親の側室の子)を擁立した。擁立したのは、氏親の側室が福島氏の娘という事情があった。

同年5月、寿桂尼は恵探派に家督を諦めさせようと説得しようとしたが、この交渉は失敗に終わった。むしろ、当然のことだろう。

その直後、恵探派の軍勢は今川館(静岡市葵区)を襲撃したが、義元らはこの攻撃を何とか防いだ。恵探は花倉城(静岡県藤枝市)に籠り、義元と対峙した。これが、花倉の乱である。

同年6月、義元は北条氏の支援を受けて、ついに花倉城を落とすことに成功した。その後、恵探は自害して果てたのである。

義元は恵探ら一派を滅亡に追い込み、今川家当主の座を確固たるものにした。やがて、義元は「海道一の弓取り」と称され、東海地方に覇を唱えたのである。

今川家の場合は、福島氏が娘の子である玄広恵探に今川家の家督を継がせ、主導権を握ろうとした。しかし、その動きは寿桂尼と太原雪斎に封じられたということになろう。


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