負けたら最後…血で血を洗う、凄絶だった戦国時代の御家騒動5選

伊達稙宗VS伊達晴宗

伊達稙宗は陸奥守護に補任されるなど、伊達氏中興の祖だった。ところが、三男・実元の越後守護・上杉定実への入嗣や、婿の相馬顕胤への伊達領割譲などの問題を抱えていた。

やがて、稙宗は力量不足や失政の責任を問われるかのごとく、長男・晴宗(政宗の祖父)や反対派の家臣団と対立していった。

天文11年(1542)、稙宗が鷹狩りに出掛けると、晴宗に捕らえられて西山城(福島県桑折町)に連行された。それは、予想さえしなかったことだ。

その後、稙宗は運良く救出されたが、晴宗との全面対決を決意し、その後の戦いを有利に進めたのである。これが、天文の乱である。

ところが、天文16年(1547)に頼みしていた蘆名盛氏が裏切り、形勢は逆転。稙宗は不利な情勢に追い込まれた。

翌年、将軍足利義輝の仲介によって、稙宗は晴宗に降伏して家督を譲ったのである。稙宗は、丸森城(宮城県丸森町)に隠居し家督を完全に譲った。

この御家騒動は親子間の対立だったが、稙宗は家臣からの支持が得られなかった。そこで、家臣は子の晴宗を擁立し、伊達家の安泰を図ったのである。

大友家の御家騒動

大友義鑑(よしあき)は嫡男の義鎮(よししげ:宗麟)を次期家督に据えると決めていたが、やがて三男の塩市丸を後継者としたいと考えるようになった。

その理由は詳らかではないが、義鑑と義鎮の政治路線が異なっていたこと、家臣が塩市丸の擁立を要望したことなどが想定されよう。

やがて、義鑑は義鎮を廃嫡しようと画策した。これが、大友家の御家騒動の発端であり、「大友二階崩れ」と称されるものだ。「大友二階崩れ」と称されたのは、事件の舞台が大友館の二階だったからである。

義鑑は重臣たちに義鎮の廃嫡を迫ったが、これは拒否された。そこで、義鑑は家臣の入田親誠と結託し、反対派の重臣を次々と殺害したのである。

ところが、天文19年(1550)、義鎮派の津久見美作らが大友館(大分市)を襲撃すると、塩市丸らの殺害に成功し、形勢は逆転。義鑑も重傷を負って、数日後に亡くなってしまった。

義鎮は家臣の戸次鑑連(べっき あきつら)らに擁立され、大友家の家督を継いだ。しかし、大友家中の動揺は収まらず、その後も義鎮暗殺が計画されるなど、不穏な動きが止まなかったという。

このケースは親子間の争いであるが、義鑑と義鎮のそれぞれに支持する家臣がいたことに注意すべきであろう。家臣団は、決して一枚岩ではなかったのだ。

【まとめ】

戦国時代の家督騒動の原因は、当主の急死、当主の政治上の判断ミス、当主の後継者指名への不満など、数々の例があった。

重要なのは、戦国大名は決して絶大な権力を持っていたとはいえず、家臣からの支持が非常に重要だったことだ。

いずれにしても家臣の意向は無視できず、家臣も自らが信頼する者を支援した。御家騒動に勝った者は、敗者を徹底して弾圧・粛清し、家中の団結力を強めたのである。

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