あまりに無謀…織田信長に逆らって、悲惨な最期を迎えた武将3人

※画像はイメージです(SankeiBiz編集部 mitsuhiro masuda)
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私たちは歴史上の出来事について、その結果を知っている。ゆえに「織田信長に逆らった武将」と聞けば、「バカだなあ!」と思うかもしれない。しかし、彼らには反旗を翻した理由があった。

松永久秀(1508~77)

松永久秀は、三好長慶に仕えていた。永禄7年(1564)7月に三好長慶が病死すると、久秀は、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と抗争に及んだ。

永禄11年に足利義昭が織田信長とともに上洛すると、久秀は家臣となり、元亀元年(1570)に大和一国の平定に成功した。信長とは良好な関係を結び、名物といわれる茶器「九十九髪茄子」のほか、「不動国行の刀」以下の諸名物を献上した。

ところが、元亀2年に久秀は信長との関係が悪化すると、三好三人衆と同盟して反逆した。久秀は甲斐の武田信玄とも通じ、反信長の諸大名と連携して反旗を翻したのだ。

天正元年(1573)に足利義昭が信長と決裂すると、久秀は義昭の味方になった。同年に義昭が信長に敗れ、翌天正2年に居城の多聞山城を信長に包囲されると降伏した。その際、久秀は多聞山城を信長に差し出したので許された。

以降、久秀は信長の配下に収まるが、天正5年8月に再び信長に背いた。驚愕した信長は配下の松井有閑を派遣して、理由を尋ねた。しかし、久秀は有閑に会おうともしなかった。前年の天正4年、足利義昭は備後鞆(広島県福山市)に移り、毛利氏の庇護下で地の大名に反信長の檄を飛ばしていた。久秀は、その誘いに応じたと考えられる。

同年8月10日、信長は叛旗を翻した久秀を討つべく、嫡男・織田信忠を総大将とし、筒井順慶勢を主力とした軍勢を派遣。そして、同年10月に信忠らが信貴山城を包囲したので、たちまち久秀は窮地に追い込まれた。

ここで、信長は久秀に対し、名器「平蜘蛛茶釜」を差し出せば助命すると伝えた。ところが、久秀は「平蜘蛛の釜とわれらの首と二つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする」と回答した。これで両者は決裂した。

それを聞いた信長は、人質の久秀の孫二人を京都六条河原で処刑した。やがて、織田軍の総攻撃が始まると、久秀は天守で「平蜘蛛茶釜」を叩き割り、10月10日に爆死したのである。なお、一説によると、茶釜に爆薬を仕込んで自爆したともいう。

別所長治(1558~80)

天正6年(1578)3月からはじまった三木合戦は「三木の干殺し」と称され、長期間にわたる兵粮攻めで知られる。

同年3月、突如として別所長治は織田信長に反旗を翻し、毛利方に背いた(『信長公記』など)。では、別所氏はどのような理由があって、信長に反旗を翻したのだろうか。別所氏が信長を裏切った理由のほとんどは、軍記物語に拠るものが多い。

『別所長治記』によると、同年3月7日に秀吉が播磨国糟屋館(加古川市)を本陣とし、別所氏家臣の別所吉親と三宅治忠と軍議を催すと、三宅治忠は自分の作戦を開陳した。

しかし、秀吉は「毛利氏の大軍に対して、わが軍は小勢であることから、何度も奇襲戦法を仕掛けるのが肝要である」と説いた。治忠はこの作戦に反論したが、秀吉からは完全に無視された。この軍議の結果、別所氏サイドには強い不満だけが残ったのだ。

あまりに横柄な秀吉の態度に、別所方は怒りを禁じえなかった。交渉役を務めた吉親と治忠は別所家で評定を催し、事後処理を検討した。その結果、別所方は自分たちの意見が無視されるのは、信長の謀計であるとの結論に至った。

さらに、先鋒として別所氏が西国征伐を完遂したのちには、秀吉に播磨が与えられると予想した。信長の謀計に乗ることは、思慮が浅いと考えたのだ。

また、『播州御征伐之事』によると、長治の伯父・吉親は佞人(口先が上手で、心のよこしまな人。邪曲で奸智にたけた人)として描かれており、長治に対して「秀吉が播磨で自由な働きをすると、ついには長治に災いをもたらす」と讒言したという。

この話を効いた長治は、信長に反旗を翻し、三木城に籠城することを決意。このとき、もう一人の伯父・重棟は、秀吉に味方することを決めた。

ほかにも別所氏が謀反を起こした理由としては、「名門の別所氏が出自すら判然としない秀吉には従えなかった」と言う説がある。それは『三木合戦軍図縁起』に書かれているが、実際に別所氏がそう思っていたのかは、確かな史料で確認できない。

以上の理由については、俗説として退けるべきであり、改めて一次史料から検討を進める必要がある。改めて、別所氏が謀反を起こした理由を考えてみたい。

天正5年(1577)12月、秀吉は別所重棟(長治の伯父)の娘と黒田官兵衛の子・長政との縁談を勧めた(「黒田文書」)。のちに重棟は別所家を去り、秀吉方に味方した。秀吉は、別所氏内部での家中の混乱を見抜いていた可能性が高い。

天正初年段階の別所氏は、まだ青年の長治を伯父の吉親と重棟が支える体制を取り、意思決定には重臣層が意見も重視された。その中で別所家では意思統一が出来ず、家中を去るものが出ても不思議ではなかった。

翌天正6年(1578)3月、本願寺は別所氏以下、高砂の梶原氏、明石の明石氏などの有力な国衆が信長から離反したことを把握した(「鷺森別院文書」)。別所氏は周辺の有力な領主と情報交換を行い、信長に反旗を翻すという重要な決断を行ったのだ。

同年3月、義昭は自らの離反工作が成功し、別所氏らが味方になったことを喜んだ(「吉川家文書」)。別所氏が離反した背景には、足利義昭による積極的な調略があった。当時、秀吉は有利に戦いを展開していたが、毛利、足利、本願寺の諸勢力は激しく抵抗し、まったく予断を許さない状況にあった。

別所氏の謀反劇の理由を要約すると、①別所氏が当時の情勢を冷静に判断した結果であること、②義昭による熱心な離反工作があったこと、の2点に集約されよう。

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