山形県村山市は知る人ぞ知る居合(抜刀術)発祥の地。居合の始祖とされる林崎甚助重信(1542?~?年)の生誕地で、同地の熊野明神(現熊野居合両神社)で居合の秘術を夢で授けられたというのが通説だ。だが林崎を記す史料は残されていない。どんな人物だったのか。
創始の起源
《千満太が静かに腕組みを解いた。そしてひややかな声で言った。
「言うことはそれだけか」
「なに?」
「喰らえ!」
千満太は怒号した。声と同時にわずかに体を沈めたと思った次の瞬間、千満太の腰を放れた刀が、伊部伝七郎の胴を抜き打ちに斬っていた。》
(藤沢周平著『隠し剣 孤影抄 宿命剣鬼走り』)
作家、藤沢周平がこう書いた居合は、戦国時代、出羽国楯岡林崎(現在の山形県村山市林崎)生まれの林崎甚助重信が父の敵討ちのため剣術を修行するなかで創始したとされる。熊野居合両神社の沿革には、天文年間(1532~55年)に抜刀(居合道)の祖・林崎甚助源重信公が祖神「熊野明神」に祈願参籠し修行に励み、「神妙秘術の純粋抜刀」の奥旨を神授され、京にて見事父の敵を討ち本懐を遂げた、とある。
居合は、日本刀を鞘に収めた状態から抜刀の動作で相手に一撃を加える剣術。抜刀後の太刀さばき、血振るい残心、納刀に至るまでの形や技術で構成される。
見つからない史料
林崎の生まれる前にも抜刀術はあった。戦国時代、武田信玄に仕え武田四天王に数えられる馬場信春(1515?~75年)は、戦場では槍(やり)術と抜刀術を用いたとされる。実は、林崎やその高弟らの史料はほとんど見つかっておらず、林崎がどうやって居合を習得したのか詳しく知る手掛かりがないのが実情だ。