「何々人だから〇〇ができない」はないが…技術のどこかに出てしまう“文化の差”

    ぼくがトリノで師事したボスは、日本の自動車メーカーにイタリアデザインの導入を促し、日本の自動車産業の発展を側面援助した。

    (Getty Images)※画像はイメージです
    (Getty Images)※画像はイメージです

    1960年代、まだ箱型のクルマを作っていた日本のメーカーに、流麗なラインのデザインを採用するように説得を試みたのだった。そして日本車は国際的にリードする位置を築いた。

    カーデザインのメッカ、トリノは日本企業のアウトソース先であった。

    それから20数年経た頃、韓国の自動車メーカーのデザイナーがトリノ詣でをはじめた。当時、韓国車を日本車と誤解して購入する人が多い、と言われたのだ。また「韓国車がデザインと品質で日本車に追い付くには10年は必要だろう」とも。

    今や、世界中、どのクルマも開発・生産国名を推察するのが難しい。クルマのデザインのレベルがあがり、加えてローカル色がなくなったためだ。デザイナーの国籍を超えた労働市場の形成と無縁ではないはずだ。

    しかし、このように脱ローカル化があっても、日本メーカーはなかなかドイツ車のドアが閉まる時の重厚な音を出せずにいる。

    総合力を構成するそれぞれのパートの力が、どこか国では重視され、どこかの国では軽視される。配分の差がもたらす結果なのだろうか。

    「何々人だから〇〇ができない」ということはない。だが、周囲の人が国籍、民族、人種と紐づけて期待することはある。しかし、その期待も確実な根拠があってのものではない。

    だが、技術のある側面のどこかに文化の差が香りとして出てしまう。それで「やっぱり、〇〇人はこの点で優れているよね」と評価される。

    偏見やステレオタイプが作られ壊され、また作られていく。延々と終わらない。


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