全体をつかめてから細部へのスイッチをオンに ラグジュアリーブランドについて

 

 最近、「ラグジュアリーブランドは日本市場が生んだものだ」という趣旨の講演を聞いた。1970年代後半、ルイヴィトンの日本進出に端を発し、「ラグジュアリーブランド」というジャンルができた、というわけである。それまでの長い歴史におけるルイヴィトンは、評価の高いブランドであったが、「ラグジュアリーブランド」と称されなかった、ということらしい。

 欧州高級ブランドを「拝んだ」理由は色々とあろうが、日本の市場がそれなりの規模に成長した結果であるのは確かである。

 また、日本の人の細かい点にいや応なしに気づいてしまう性格が、外国製品の改善に貢献したことも、多くの人が指摘してきた。別に頼まなくても、商品の見えない部分の不具合を次々に挙げてくれる「品質マシーン」のようである、とも思われた。

 それが今も活用されているところもあるが、そう喧伝はされなくなってきた。なぜならば、日本で売れることが、それ以外の市場における成功を保証する確率が低くなってきたからだ。

 もっと購買力のある市場が浮上してきた。それらの国の消費者がさほど煩いことを言わない。そこから細かいことを執拗に言ってくる人たちの意見は相対的に重視されなくなってくる。

 つまり、市場の購買力と品質要求の両方がそれなりに魅力的である時に成立した神話が、「世界のメーカーにとって日本人の繊細さが重要」であったと思われる。それも「とても」重要だった。

 今は重要でないとは言わないが、「とても」の強調度は低下してきた。

 それにしても、どうして日本の人はもう本能のように、まず細かいところに目をいくのだろう。いき過ぎるほどにいってしまう。池に浮かぶボートの上でバランスをとらなくてはいけないシーンでも、舟の外側にまとわりつくゴミに気づくと、思わず身を乗り出してしまうのだ。

そして、ボートは沈をせずとも大きく揺れる。全体の均衡を失うのである。

 だから「細かいところに目が行き届くのは美点であるが、全体のバランスをとるのが上手くない」という評価がどうしてもつきまとう。しかも全体への感覚がないと、この評価の意味が本当に理解できない。

 今までウンザリするほどに、こういう「細部と全体の比重」について議論がされてきた。その理由も色々と解説されてきた。ぼく自身も講演会などで何度も話し、文章にも書いてきた。

 全体像を掴むのは三者の関係を知ることだとか、三つの視点をもって状況を掴むのがコツであるとか、細部と全体を結ぶ工夫が必要であるとか。

 こうして全体へのアプローチの必要性をさまざまなアングルから説いてきたつもりだが、最近、強制的に「細部を見る」スイッチをあえて切ることがどうしても必要ではないか、という気がしている。

 しかし、細部を見ることが美点として称えられていると、ここのスイッチをオフにするのは後ろめたい。得意を活かす、という原則に反するではないか、と。

 ここは一度、その原則の適用をやめてみよう。

 ほっておいても細かいところに気が行ってしまうのだから、全体へ行きつくために一時オフにすることに、あまり躊躇する必要はないのではないか。それほどに全体へのバランス感覚は強く求められている、と認識するのが妥当だ。

 全体がつかめたと確信がもてた時点で、細部へのスイッチをオンにすればいい。そうして細部をみた後に、また全体をみる。この往復活動を何度かするうちに、スイッチをオフにすることに馴れていくはずだ。

 それは仕事に集中するあまりに心に余裕がなくなる、という状況を招かないために意図的にリラックスする時間をもつことにも似ているかもしれない。

 そう、全体を眺めるには何らかの精神的な余裕やユーモアが要される。小さな穴に入り込まない工夫は真剣に考えないといけない。(安西洋之)

【プロフィル】安西洋之(あんざい ひろゆき)

上智大学文学部仏文科卒業。日本の自動車メーカーに勤務後、独立。ミラノ在住。ビジネスプランナーとしてデザインから文化論まで全方位で活動。現在、ローカリゼーションマップのビジネス化を図っている。著書に『世界の伸びる中小・ベンチャー企業は何を考えているのか?』『ヨーロッパの目 日本の目 文化のリアリティを読み解く』 共著に『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか? 世界で売れる商品の異文化対応力』。ローカリゼーションマップのサイト(β版)フェイスブックのページ ブログ「さまざまなデザイン」 Twitterは@anzaih

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