「価格勝負で利用客を増やそう。思い切ってどこで乗り降りしても『100円』でやっていけるか。しっかり検討してほしい」
平成9年6月、西日本鉄道(西鉄)第14代社長に就任したばかりの明石博義(77)は、バス事業の担当役員らにこう命じた。
昭和56年の福岡市営地下鉄開業以来、西鉄バスの乗客数の漸減に歯止めがかからず、62年度以降はバス事業はたびたび赤字に陥っていた。
都市開発事業などでグループ全体の収益はなんとか黒字を保っていたが、日本一を誇るバス事業を立て直さなければ、将来の見通しは暗い。
しかも平成9年4月、運輸相の諮問機関、運輸政策審議会(当時)が、乗り合いバス事業への参入の原則自由化に向けた議論を始めた。九州北部で路線バスをほぼ独占してきた西鉄にとって大きな痛手となりかねない。
「バス事業の立て直しが私の使命だ」-。そう思った明石が秘策として打ち出したのが「100円バス」構想だった。
自由化が進めば、他のバス会社が福岡市中心部に乗り込んでくるかもしれない。そこで天神や博多駅を含む1・8キロ四方メートルのエリアに100円バスを周回させ、他社が参入できないほどの地位を築こうと考えたのだ。
これは「路線維持のために運賃値上げで増収を図る」というバス事業の常識を覆す「逆転の発想」だった。180~220円の運賃を一律100円に引き下げるわけだからリスクも大きい。
バス事業の担当者らは、乗客の利用状況などを徹底的に分析した末、「100円バス導入により、歩行者やマイカーの人がバスに乗り換え、結果的に増収が見込める」という結論を導き出した。
100円バスの試験運行は11年7月から始まった。半年後、驚くべきデータが得られた。
運行エリア内の乗客数は前年比173・9%となり、ほぼ空っぽ状態だった車両まで乗客であふれた。明石は迷うことなく本格運行のゴーサインを出した。
100円バスの効果は絶大だった。西鉄にとってドル箱である福岡都市圏(福岡市と周辺市町)の平成10年度の乗客数は1億6103万人だったが、11年度は1億6729万人に増加。12年度は1億7233万人とさらに増えた。12年度は西鉄バスの全乗客数も2・4%増の2億7832万人となり、20年ぶりに増加に転じた。
平成17年2月には福岡市営地下鉄七隈線が開通し、西鉄にとって打撃となるかと思われたが、バスの乗客数はほぼ横ばいだった。その後もバス離れを食い止め、24年度の乗客数は2億6685万人をキープしている。全国的に縮小傾向が続くバス業界で異例の存在だといえる。
100円バスの成功は、バス事業の担当者に自信を取り戻させた。
12年に65歳以上の高齢者向けに1カ月5000円で路線バスが乗り放題となる「グランドパス65」の発売を開始した。15年には高校、大学生、専門学校生などを対象に1カ月6000円(小・中学生は3000円)で福岡都市圏に限り乗り放題となる「エコルカード」を売り出した。
現在の両カードの利用者は計8万人以上。乗客1人当たりの収入は減ったが、外出する機会が少ない高齢者の外出を促し、若年層のバス利用を増やした。
「収益よりも乗客の『バス離れ』に歯止めをかけることが重要でした。それに100円バスの導入により福岡市都心部の回遊性を高めたことができた。西鉄は地域とともに発展する会社です。それを社員たちも再認識してくれたんじゃないでしょうか」
今も相談役としてほぼ毎日出社している明石はこう語って目を細めた。バス事業がもはやグループの稼ぎ頭となることはないだろうが、明石はそれほど悲観していない。知恵を絞ってニーズに応えていけば、乗客も必ず応えてくれると信じているからだ。
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「快適なバスを作らなければお客さんは乗ってくれないぞ。常識にはとらわれず、乗客目線でとことん突き詰めろ!」
マイカーの普及により、バス乗客の急減が続いていた昭和48年。常務で自動車局長の大屋麗之助(90)=後の第12代社長=は部下にこう繰り返した。
西鉄のバス事業は20~30年代に路線を次々に拡大したことにより、路面電車、鉄道を抜き、中核事業に成長したが、39年度の年間乗客数5億2千万人をピークに減少に転じ、48年度は4億人にまで落ち込んだ。
46年に自動車局長に就任した大屋が目をつけたのは「快適性」だった。「マイカーよりバスが快適ならば多くの人が利用してくれるはずだ」と考えたのだ。
そこで打ち出したのが、冷房付きの路線バスの導入だった。マイカーでも冷房なしが当たり前の時代。もちろん全国初の試みだった。
だが、路線バスは高速バスや貸し切りバスに比べてドアが大きい上、頻繁に開閉する。メーカーは「冷気がすぐに逃げてしまうので路線バスの冷房は無理だ」とにべもなかった。
だが、大屋はそう簡単に考えを曲げない。バス事業の技術系社員は、子会社の車体メーカー「西日本車体工業」(北九州市小倉北区)とともに路線バスの冷房導入に向け、試行錯誤を続けた。
51年6月、ついに実用化に成功した。技術陣が弾きだした答えは「エアカーテン」だった。ドアを開くと、ドア上部の送風口から床に向かって風を吹き出し、冷気が逃げるのを防ぐ仕組みだ。デパートの入り口などで採用するシステムをバスに応用した。
西鉄はバスへの冷房導入を推し進め、57年8月にはついに冷房化率100%を達成した。
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大屋が路線バスの冷房導入にこだわったのは、自らが東京帝国大学第一工学部出身の技術者であり、日本初の冷房バス(貸し切りバス)を開発したことが大きい。
「『夢のバス』を作りなさい…」
昭和30年、バス製造を統括する車両課長に32歳で抜擢された大屋は、第6代社長、木村重吉(1901~1963)にこう命じられた。具体的な指示は一切なかったが、大屋はすぐに「冷房と空気バネ(エアサスペンション)を搭載した快適な豪華バス」をひらめいた。
高度経済成長期に入った当時、企業は増収増益を続け、貸し切りバスでの社員旅行が人気を集めていた。大屋の「夢のバス」はまさにニーズに応えていた。
33年、日本初の冷房付き貸し切りバス「デラックスバス」が完成した。ナンバープレートは「1212」だった。
ところが、冷房効率を上げるために密閉構造とした上、冷蔵庫なども積み込んだため、車両があまりに重かった。非力なエンジンは上り坂になるととたんに音を上げ、乗客たちは「1212」にひっかけて「オイッチニ、オイッチニ」と冷やかした。
結局、「夢のバス」の量産化は見送られたが、冷房を搭載するための技術改良はその後も続けられた。37年以降に次々と導入した福岡-大分間や福岡-熊本間の長距離特急バスに冷房が搭載され、乗客を喜ばせた。
44年、改良版のデラックスバスが復活した。西鉄は、福岡・天神を出発し、京都、東京、北海道など6300キロを22泊23日で回る「日本一周バスツアー」を敢行した。出発式には報道各社が取材に駆けつけ、西鉄バスのサービス精神を世に知らしめた。
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大屋はその後もバスの「快適性」にこだわった。
一つは低床化。乗り口の段差が少なければ少ないほど高齢者に優しく、乗降時の事故も防げる。技術部門のエキスパートである佐々木希(60)=現・取締役自動車事業本部長=は、若い頃から何度も大屋にこうハッパをかけられた。
「とにかく1ミリでも1センチでも床を削れ!」
61年には福岡・北九州-大阪間の高速夜行バス「ムーンライト号」に、日本初の独立3列シートを導入した。席1つ1つを切り離すことにより、知らない男性が横に座ることを敬遠する女性の夜行バス需要を掘り起こした。
こうした車両改革は、西鉄本体だけではなしえない。大きく貢献したのが、直系の車体メーカー「西日本車体工業」だった。
ほとんどのバス会社が、自動車メーカーにバス製造を任せる。だが、西鉄ではエンジンやシャシーなど駆動系の主要部品だけ自動車メーカー製で、乗車スペースなどは西日本車体工業で作製した。
これも戦後のバス事業の「育ての親」である楢橋直幹(1891~1961)=後の副社長=のアイデアだった。西日本車体工業の設立は昭和21年10月。多くの車両が空襲で焼かれ、急ピッチで増産するには「自分たちで作った方が手っ取り早い」と考えたのだ。
技術陣の主力は、戦前に軍の偵察機などを作っていた航空機メーカー「九州飛行機」から移籍してきた。
本社の開発担当者と、西日本車体工業の技術者は日々議論を戦わせながら、他のメーカーが「絶対に作れない」と言っていたバスを次々と世に送り出した。
特異なのは、バス用冷房など独自に開発した技術を特許で縛るどころか、他のバス会社に薦めてきたことだろう。歴代経営陣が「技術を独り占めするよりも、各社がこぞって導入してこそバス業界が発展する」と考えてきたからだ。
残念ながら、西日本車体工業は平成22年10月、解散に追い込まれた。自動車メーカーが自社系列で車体を作るようになり、シャシーの供給を受けられなくなったからだ。
といってもバス事業の技術者のスピリットは脈々と受け継がれている。
佐々木は情報サービスの強化こそがバス事業の生命線になると考えている。
「将来的には、土地勘のない人でも、移動中にスマホに行き先を入力すれば『間もなく来る何番のバスに乗って、どこで乗り換え、何時何分ごろに目的地に着く』という情報が簡単に、しかもリアルタイムに分かるようにしたい。ITも、運賃制度も、車両開発もすべては『お客さまが乗りやすいように』が出発点なんです。今後もそれは絶対に変わりませんよ」
(敬称略)