18歳の頃、妹たちと(右端)【拡大】
テレビ局やメディア関係、海外拠点のある商社など、受けれども全て不合格。筆記試験は通過して面接までいっても、いつもそこで駄目になりました。「男性にひけをとらない仕事をする自信があります。定年まで頑張ります。社長を目指します」と話すと、人事担当者はあきれたように「そんなこと誰もあなたに期待していませんよ」と。その頃「女の定年は25歳」が暗黙のルールでした。
高卒か短大卒で、お茶くみやコピー取り、電話番などの補助作業を従順にこなして、25歳までに結婚して寿退社してくれるのが、次々と若い女性を雇用でき、給与も安く抑えられ好都合なわけです。居座ってもらっては困るという理屈です。それがあの時代の価値観でした。
津田塾で、尊敬していた先輩の勤務先に何度かOG訪問をしたことがありました。彼女は黙々と英文タイピストをしていました。彼女は内心、恥ずかしかったと思いますが、あえて後輩の私に現実の姿を見せてくれました。男女雇用均等法は影も形もなく、女性と男性の採用は別枠でした。かといって、自分を偽って、就職することもしたくありませんでした。
就職できないからといって、ふるさとの桑名に帰郷することは死んでもできません。「ほらごらん、女が東京の大学を出ても、就職もできずにまた親の世話になっているじゃないか」などと、後から続こうとしている女性たちの希望をくじく材料に使われてはならない! 22歳にして、目の前の重い扉が大音響とともに閉じられたのです。(聞き手 廣瀬千秋)