1947年、お線香「毎日香」を譲ってくれた鬼頭天薫堂【拡大】
■「毎日香」譲り受け 全国区へ転機
終戦直後、焦土と化した中で、父、正規は「お線香は大当たりする」との読みがあったのか、すぐさま「職工100人大募集」との手書きのビラをまいて従業員を集め、再スタートを切ります。戦死者らの弔いもあって、父の読み通り、お線香を作れば端から売れ、増産体制を整備するのに忙しく立ち回っていました。
私たち子供は、戦前から夏休みには、神奈川県の葉山の御用邸近くの一軒家を夏中借りて、避暑にいっていました。住み込みのお手伝いさんや、家庭教師と一緒に行き、海で泳いだり、昼寝したり、勉強したり、夜は花火をしたりしていました。
終戦後もしばらく夏はそこで過ごしていましたが、父は一段と多忙を極め、土曜日の夜遅く来るくらいでした。日曜日に海岸で一緒に遊んで、慌ただしく帰京していました。
◆緊張の対面に同席
1947(昭和22)年、日本香堂にとって画期的な出来事がありました。堺に本社があった名門、鬼頭天薫堂からお線香の「毎日香」、お香の「花の花」の有力ブランドを譲り受けたのです。毎日香は全国ブランドで、花の花も中東に輸出され、王族らにとても高価で取引されていました。同社は優れたアイデアで開発を重ね、その調香技術は天才的とまでいわれていましたが、後継者難と戦後の混乱で生産が途絶えていました。
このとき私は11歳。父に連れられ、満員の寝台車に乗って京都に行き、その商標権の移譲シーンに同席しました。記憶はあいまいですが、お互いが向かい合ってこたつに入り、しばらく無言のまま、ぴりぴりしたエネルギーがぶつかり合うような情景だったことは脳裏に焼き付いています。