完全独立をめぐり社内が大揺れしていたころ【拡大】
■第2の創業へ 孔官堂と決別
昭和40(1965)年、東京孔官堂に、苦渋の決断が迫られました。17年に独立をしていたものの、大阪の孔官堂が親会社であり、東京孔官堂の主力商品「蘭月」は孔官堂が独占商標権を保持していました。22(1947)年に鬼頭天薫堂の鬼頭勇治郎氏から「毎日香」を譲り受けたものの、当時はまだ「蘭月」のシェアが売上高の7割を占め、圧倒的でした。
孔官堂は東京孔官堂に対して全株を引き渡せ、もしも拒否するようなら、「蘭月」の製造権も使用権も認めない、という要求でした。「蘭月」が製造できないと経営難に陥るのは避けられません。孔官堂は東京孔官堂の全経営権を奪還することが目的でした。
◆若手は反発
だんだんと東京孔官堂が勢いを増して28(1953)年に日光工場(栃木県)、34(1959)年に日光分工場、38(1963)年に昭島香料加工工場がそれぞれオープンし、右肩上がりの成長を遂げていたことが、孔官堂との亀裂の原因でした。判断は分かれました。40代、50代の幹部らは「蘭月」を止められたら成り立っていかない、株を渡せばこれまで通り、売り上げは変わらないのだから、孔官堂の要求をのむしかないとの姿勢でした。これに対して、20代の若手を中心に「理屈が合わない、おかしい。断固、断るべきです」と反発の声が上がってきました。
父、正規は苦慮していました。孔官堂に丁稚(でっち)奉公で入りながらも、温かく育ててもらい、独立を許してくれた親です。親に矢を向けるわけにはいきません。しかも、正規の姉が孔官堂の幹部に嫁いでもいました。恩情と義理があります。かといって、ここまで自らの才覚で成長させた東京孔官堂を言われるままに手放すこともじくじたる思いが募ります。