完全独立をめぐり社内が大揺れしていたころ【拡大】
情に厚い父は相当に悩んでいましたが、ある意味、達観していたのかもしれません。父は「みんなで相談しろ、その答えで私も決済する」と幹部に委ねました。
次第に若手の強硬路線が強まっていきます。29歳だった私も同意見でした。ここで孔官堂の要求をのんだとしても、いずれ同じ事態が起きないともかぎらない、退路を断つしかない、とも考えました。父は、こう最終決断をしました。
「これからは若い人の時代だ。この会社を動かしていく若い人たちの決断を尊重しよう」
孔官堂と手を切り、完全分離・独立を決めた瞬間でした。ベテランの反発が予想されましたが、父が決済すれば決着、不満は残らなかったと思います。むしろ、みんな吹っ切れて感無量だったのではないでしょうか。
◆吹っ切れ感無量
翌日、孔官堂との交渉の場に、父とともに私も同席しました。父はほとんど口を開きませんでした。要求を拒否する理由として、孔官堂から分離して完全独立する、とは言わないでくれ、とくぎを刺されていましたので、私から「東京孔官堂の株の半分は、お得意先が持っており、私たちの判断だけで決められません、お得意先には納得されていないところも多くあります」と話しました。
17(1942)年当初19万5000円だった資本金は、関東のお得意先が5万円、10万円とお持ちいただいていました。東京孔官堂の将来性はもとより、正規の経営姿勢を高く評価してくれたからだと思います。そのお得意先の持ち分が過半数ありましたから、実際に全株を譲渡するのは物理的なハードルがあったのです。
穏やかに別れましたが、孔官堂はずいぶんと不服だったと思います。まさか、売り上げの7割を占める「蘭月」を切り捨てるとは想定外だったのかもしれません。この日が、わが社の第2の創業となりました。ところが、すぐさま前途には幾重もの苦難の道が待ち受けていました。