
大阪市内から堺市に移転したシャープの本社。建物右側の3階建て部分。左側は元々稼働していた工場=1日午前、堺市堺区(柿平博文撮影)【拡大】
旧本社周辺では、経営危機から出資交渉まで揺れ続けたシャープを見守った地元の飲食店主らが、なじみ客でもある役員や社員らとの別れを惜しんだ。
昭和45年から地元ですし店を営む後藤象(しょう)次郎さん(73)は「田辺ビルの上にまだ『早川電機』の看板があった頃から、出前の注文をよく受けた。急に研修の社員用に100人前を注文され、慌てた思い出もある。業績好調の頃は田辺ビルの屋上にヘリポートをつけるなんて話もあったのに、もう少し地元で頑張ってほしかった」と寂しげな表情で話した。
また、近くで喫茶店を営む40代の女性は「経営危機で辞めていく人もいて不安だと思うが、ランチのときに明るくおしゃべりにくる常連さんもいた。出資先が決まり、これから良い方向に進んでほしい」と温かい言葉を寄せた。
社名の由来でもある「シャープペンシル」の発明で成功を収めた創業者の早川徳次氏は、関東大震災で妻子と工場のすべてを失い、東京から大阪に移って初の国産ラジオを生み出した。新天地で再起を図った創業者の心を胸に、シャープ社員らの再挑戦の日々が始まった。(石川有紀、織田淳嗣)