ヤマの男がスーツ姿でフロントに
そもそも中村(注・中村豊、ハワイアンセンター創業者)には一つの信念があった。それは、「常磐炭礦の一山一家の団結を強めて、他人の手は借りない。苦しくてもすべて自前でやる」ということだ。
だから、建物の設計についても外部の設計者やコンサルタントなどは誰一人として入れず、構想や企画はすべて中村自身が立て、実際の設計や施工は子会社である常磐開発(JASDAQ上場。現在はグループ会社)が行った。
そして、従業員は常磐炭礦の元従業員とその家族でまかなった。開業当初のハワイアンセンターでは、父親がホテルのフロントマンで母親が客室係、息子が調理師で娘がフラダンサーという、そんな構図が当たり前のようにあった。
開業当時620人を数えた社員のうち、どうしても外部の力を借りなくてはならなかったのは、レストランの総料理長、フラやフラメンコの先生たちなど専門職のほんの2、3人だけ。それまで劣悪な坑内環境の中、ふんどし一つでツルハシを持って黙々と石炭を掘っていたヤマの男がウクレレを持ったり、スーツを着てフロントに立ったり、あるいは中学を出たばかりのヤマの娘がフラダンサーになったり、レストランのウェイトレスになったりした。
そんな中で、会社が人探しに意外と苦労したのが営業マンだった。炭鉱の男たちというのはもともと口数が少なく、過酷な環境の下で、ただひたすら石炭を掘る寡黙な者が多かったからだ。
しかし、視点を変えて探してみれば、身近にまさに適任の男たちがいるではないか。それは、会社側と日々、丁々発止の労務交渉をしていた労働組合の面々だった。しばらくして組合の委員長が営業部長になったという。冗談のようだが、本当の話である。
ハワイアンセンターは、中村が目指したような、まさに誰の力も借りない「自前」の施設だったのだ。