例えば、店員の販売権限と義務を明確化した「店法」の制定▽本家と店、店員へ配当する利益三分主義▽社内会議で経営を民主化-などが挙げられる。また、他国で信頼を得て商売をした近江商人の「三方(さんぽう)よし」(商売は売買当事者だけでなく、世間のためにもならねばならない)の理念をもとに、店員らに「商売は菩薩の業、商売道の尊さは売り買い何(いず)れをも益し、世の不足をうずめ、御仏(みほとけ)の心にかなうもの」と説き、店を発展させていった。
桂田さんは、忠兵衛の人間味を示すエピソードも紹介する。「とにかく、せっかちで、食事も風呂もトイレも素早く済ませ、足袋を片方だけしか履いていなかったりしたことも」。店員らが商品を乱雑に扱うと叱り飛ばした半面、1と6のつく日を「一六」と称し、すき焼きを全員で食べる慈悲心も見せたという。
合理化精神の発揮
忠兵衛を豊郷の本家で支えた妻、八重(やえ)の存在も欠かせない。大阪の店で使う食料、たばこ、店員らの衣服の調達だけでなく、店で売る近江麻布の仕入れを切り回し、新入店員に行儀作法やそろばんなどを教えたり、問題を起こした店員らを再教育したりと、今の企業の総務・人事部のような役割を八重が請け負った。
忠兵衛が61歳で他界すると、長男もすでに早世していたため、商業学校生の次男、精一が八重から後継指名され、17歳で二代忠兵衛を襲名した。八重の方針で荷造りや発送などのでっち奉公からスタートした二代目は、当時は珍しい自転車を得意先回りに導入するなど才覚を発揮。経営者に就くと、店法の改定で学卒者を大量採用し、35歳以下の若手人材による新組織づくりを進めたほか、英国留学を機にドイツやフランスから織物を仕入れて日本経由で韓国に輸出するなど「総合商社」への道を開いた。
初代の遺訓をもとに事業を拡大した二代目は、カタカナの横書きを奨励するカナモジ運動を推進。伊藤忠グループの研修を担当する伊藤忠人事総務サービス(東京)の片桐二郎グローバル人材開発部アドバイザーは「カナ文字は書くのが早いという二代忠兵衛の合理化精神が見える」と指摘する。
さらに個人経営の組織を改め、「伊藤忠合名会社」を設立。同社はその後、分割や合併を繰り返し、今の伊藤忠商事と丸紅に至る。先の大戦後は伊藤家以外の者が社長に就き、二代目は最晩年を熱海の別荘で過ごして86歳で死去した。