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スバルが米国で過去最高を更新できるワケ 「客が変わった」の深層 (3/3ページ)

徹底した安全思想が、世紀を超えて評価され始めた

 ただ、どんな場合でも大前提はある。それが安全だ。自動運転になっても、コネクティッドカーであっても、安全でなければ誰も乗らない。

 安全も事故に対してだけではない。故障に対しても安心安全でなくてはならない。ガソリンならばどこでも買えるけれど、EVのパワーである電気を充電する場所は少ない。山の上へ出かけていって、電池の残量が乏しくなったら、もうお手上げなのである。燃料電池車だって同様だ。山の上に水素スタンドがなければお手上げだ。

 また、自動運転車だって機械だから、必ず不具合が起こる。車が止まってしまったら、安全であること、外部と通信できることが、車のスピードよりも何よりもはるかに重要だろう。

 幸せなことに、スバルは飛行機をつくっていた時代から、安全をクルマの特質として考えてきた。アイサイトの性能が評価されたというよりも、アンドレ・マリー技師が中島飛行機にやってきた1927年以降、考えに考えてきた乗員を守る「安全思想」が、時代が変わったことで、大きな評価の対象になったということだろう。

軍艦より航空機を重視したスバルのルーツ

 1980年代、日本における会社の寿命は30年とされていた。30年以上たった現在ではよくて10年もてばいいらしい。アメリカでは、はっきりと「寿命は5年だ」と言われている。それくらい新陳代謝が激しいのに、スバルは100年も続いている。

 ただ、会社がやっていることは変わってきた。最初のうちは飛行機会社で、その後、スクーターや電車の車両、バスをつくり、軽自動車を始め、1966年のスバル1000から大衆車をつくる会社になった。そして、2000年代には北米マーケットに特化した自動車会社になっている。スバルの100年は有為転変というか変化の100年だった。

 「貧乏国日本が列強並みに建艦競争をつづけるのは、国費のムダづかい。そんなことをしていてはやがて行き詰る。能率的軍備に発想を切り替え、二艦隊(軍艦八隻)をつくる費用で、八万機の航空機をつくるべし。」

 中島飛行機の創始者・中島知久平は、日本が生き残るためには発想を変えようと言った。巨艦よりも航空機をつくるべきだと主張した。しかし、日本は巨艦をつくり、そして、戦争に負けた。

 スバルは儲かっている会社だといわれている。しかし、事実はアメリカでの売り上げが多いから、儲かっているように見える。そして、もっと事実を見ていくと、アメリカでも存在感があるのは雪が降る地区と北部の大都市だ。知名度もトヨタ、ホンダにはかなわない。プレミアムなイメージはあるけれど、しかし、今後のユーザーはもはやイメージでは車は買わない。

 スバルはまだ開発途上であり、会社としての目的を探している。安全を特徴とし、アメリカマーケットでやや売れているというのが同社の等身大の姿だ。自尊心にもたれかかっている場合ではない。

 スバルはまだ何かを探している。早く見つけなくてはならないけれど、まだ探している段階だ。

 その意味でも、改めてこの約100年を振り返ることは、スバルという会社自身にとっても重要であるように思えてくる。(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

 野地 秩嘉(のじ・つねよし)

 1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』『トヨタ物語』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。

(PRESIDENT Online)

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