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焼け野原からの「復興」今に生かす 正確な被災地図作成へ続く試み (2/2ページ)

 闇市の場所や規模は

 石橋氏は空襲前の古地図なども活用し、復興の初期段階に出現した闇市の再現を試みた。闇市は住民が日々の暮らしを取り戻す第一歩だったにもかかわらず、これまで正確な場所や規模が明らかになっていなかった。

 終戦直後の航空写真や、区が所蔵していた露店業者へのアンケート、さらに当時を知る人の証言なども加味し、区内に15カ所の闇市があったことを突き止めた。広い通りや鉄道駅の結節点など、利便性の高い場所に集中していた。

 かつて闇市だった場所は、今も商店や飲食店が連なるなど、その後の街づくりに少なからず影響していた。ただ、「空襲直後と今とのつながりは、実は闇市に限ったことではない」(石橋氏)。

 東京大空襲当時、東京には22年前の関東大震災からの復興事業で建てられた、鉄筋コンクリート造りの校舎を持つ小学校が数多くあった。被災地図上では罹災地域であっても、多くの場合、これらの建物は無事で、空襲直後から軍隊やけが人を収容するなど、支援の拠点になった。

 例えば、茅場小(墨田区)の校舎は病院として使われ、戦後もしばらくそのままだった。復興の歩みに重要な役割を果たしたにもかかわらず、こうした校舎の実態はよく分かっていないといい、今後も調査を進める方針だ。

 「復興という言葉の陰で、住民がどのように暮らしを再建し、街づくりに役割を果たしたのか。被災当事者の声を重ねることで、今後の災害復興の課題も浮かび上がってくるような気がする」。石橋氏は、東京大空襲を考察する現代的意義をそう語る。(大森貴弘)

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