高論卓説

海外からの感染症は不可避 医療・研究の充実に民の力と知恵を

 巣ごもりが求められているご時世、時間を持て余し、本が読みたくなる。まずは、「積ん読」の解消である。読んでいなかった本を片っ端から読んだ。それでも飽き足らず、ネット通販で中古本を買い増したりしたが、セミナーなど出講の仕事で得られたはずの謝金が入ってこなくなった以上、節約はしたい。そこで、図書館から本を借りようとしたが、開館している図書館はもはやなかった。それでも諦めきれず、ネットでいろいろ調べたところ、興味深いコンテンツを提供している図書館をいくつも発見した。

 例えば、東京都下の小平市立図書館。サイト内の『こどもきょうどしりょう』には、市域のことだけではなく、江戸・東京の歴史を回顧したものがあった。目に留まったのは、「コレラが町にやって来た」で、その中には「江戸・東京 流行病(はやりやまい)年表」というものがあった。私はこの春から、幕末から明治維新以降、昭和まで、日本の資本主義の変遷を大学で講義することになったが、近代化に邁進(まいしん)し経済力を高めていったこの時代、江戸・東京が多様な感染症に苦しめられたことをこの年表から思い知った。

 コレラは、安政5(1858)年に細菌が日本に入り、大正時代まで何度も流行した。小平市図書館のサイトから引用すれば、「5月21日、アメリカ軍艦ミシシッピ号、コレラに感染した乗組員をのせて、長崎入港。コレラも日本上陸。6月コレラ、東海道を通り、7月江戸にはいる。8月コレラ、全国に流行。8月13日来日中のフランス軍艦から、コレラ予防の意見書をもらう。8月23日幕府、コレラの予防・治療法を配る。9月幕府、コレラ流行で困っている人を救うため、52万人分の米(代金6万両)を出す」となる。欧米列強の圧力に鎖国は続けられず、ペリーの下田来航後、数年でコレラ菌が入ってきて、幕府は医療的な対応とともに、困窮者対策にも追われた。

 時代は移り明治12(1879)年、史上最悪の大流行では明治天皇より「コレラ撲滅に関する勅諭」も発せられたが、結局、明治時代を通じて約37万人がコレラで命を落とした。これは、日清・日露戦争の戦死者をはるかに上回る。避病院という伝染病専門の病院がつくられたが、医師も看護師も不足していて、感染者はばたばた亡くなったという。

 明治維新以降の近代化戦略は、国際化を深化させる中で進められたので、海外から感染症が入ってくることは不可避だった。明治30年代にはペストが流行し、大正期にはスペイン風邪で39万人近くが亡くなった。

 希代の落語家、立川談志は、「現実が正解だ」という名言を残している。国際社会も国家も、もちろん政治、行政、企業も、そして私たち一人一人も、これまでの考えや行動の帰結として現実がある。それを直視して、政府に任せるだけでなく、民の力で未来の現実を変えていこうと立ち上がる者が現れてほしい。

 2024年に一新される一万円札の顔は、渋沢栄一である。渋沢は、教育機関や病院、福祉施設、さらには研究機関などの設立と運営にも力を尽くした。そのために渋沢は、「泥棒カバン」を持ち歩いて人に会い、人の良心をうまく引き出して資金を集めたという。

 まずは地域における公衆衛生・保健の体制、医療資源、感染症研究などに焦点を当て民主導の取り組みを構想すべきだ。いま待たれているのは21世紀の渋沢栄一の出現である。

【プロフィル】井上洋

 いのうえ・ひろし ダイバーシティ研究所参与。明大講師。早大卒。1980年経団連事務局入局。産業政策を専門とし、2003年公表の「奥田ビジョン」の取りまとめを担当。産業第一本部長、社会広報本部長、教育・スポーツ推進本部長などを歴任。17年退職。東京都出身。

Recommend

Ranking

アクセスランキング

Biz Plus