姫路の“廃虚モノレール”が脚光浴びる まるで古代遺跡…解体工事にファン殺到
ビートルズが来日した昭和41年。兵庫県姫路市で開かれた「姫路大博覧会」に合わせて、自治体が運営する初めての市営モノレールが走った。未来の都市交通の手段として期待を背負って登場したが、開業直後から利用客が伸び悩み、わずか8年で運行はストップ。54年に赤字まみれで廃止に追い込まれた経緯から、「負の遺産」として市民から冷ややかな目で見られがちな存在だった。ところが近年、姫路モノレールの持つ価値を見直し、「文化財」や「土木遺産」として再評価しようという機運が高まりつつある。今年で開業から50年。中間駅が入っていたビルが老朽化により解体工事が本格化するなど、ゆかりの遺構が次々と姿を消しつつある中、姫路モノレールの「復権」の動きは果たして軌道に乗るだろうか。(荒木利宏)
現市長の父が導入
41年に開催された姫路大博覧会の目玉の一つとして導入されたのが、姫路モノレールだった。
会場の手柄山駅と姫路駅を結ぶわずか約1・8キロの路線だったが、本来は、この区間をテストケースとして同市の臨海部に広がる工業地帯、さらに遠い将来ながら日本海側の地域までモノレールで結ぶという壮大な計画が構想されていたという。
いまの時代から見ても、無謀とも思える計画だが、構想したのは現在の市長、石見利勝氏の父で、終戦直後の21年から42年まで同市長を務めた元秀氏(故人)だった。市長就任以降、姫路駅と姫路城を結ぶ幅50メートルにおよぶ道路「大手前通り」を整備するなど、今の姫路の都市基盤形成に大きな役割を果たした人物だ。
交通問題解決へ…壮大なプラン
市によると、元秀氏がモノレール導入計画を具現化させるために動き出したのは30年代後半。このころ、乗用車の普及が進み、渋滞や事故など交通問題が深刻化し始めた時期だった。人口も右肩上がりで増加した時代で、交通問題の解決を迫られていた。
市に残された当時の資料には「モノレールは最小の用地で立体交差が可能な一番安い大量輸送機関」との記載が残る。住宅やビルが密集し、増え続ける人口…。当時は地上を鉄道が走り、踏切での事故も多発しており、交通問題の効率的な解決方法が、モノレールの導入だったとしている。
姫路大博覧会では、高架道路とモノレールが循環する姫路の未来像を表現した立体模型が展示され、交通渋滞解消への市の構想の一端が示された。
「当時の記録フィルムによると、石見元秀市長はモノレールが市民に受け入れられれば南は臨海工業地帯、北は姫路城まで路線を延ばし、ゆくゆくは豊岡、舞鶴方面とも接続させる構想を明かしています」
市が手柄山駅を再利用して姫路モノレールの車両を常設展示する手柄山交流ステーションの青木正典さんは、こう解説する。
しかし、交通問題解消に端を発した壮大な構想は、現実の高い壁にいきなり直面することになった。
赤字続きで8年で休止
姫路モノレールの車両は米ロッキード社製で、航空機の製造技術を活用。アルミ合金を使用することで車体の軽量化と強度を両立させた当時としては最新鋭の「未来の乗り物」だった。
41年5月に開業した姫路モノレールは、姫路大博覧会の会期中、3両編成で手柄山と姫路の間を大勢の乗客を乗せて行き交い、にぎわいをみせていた。
しかし、6月に博覧会が終了すると客足は一気に低迷。当初の予想では年間126万人の乗客数を想定していたが、41年度の乗客は想定の3分の1の約40万人だった。しかも同年度がピークで、乗客は年々減少して赤字が当たり前の状態に陥った。モノレールの軌道がビルを貫くユニークな外観を持っていた唯一の中間駅「大将軍駅」は姫路駅からの距離が近すぎたこともあって利用客が伸びず、43年1月に閉鎖された。
鳴り物入りで登場したモノレールの経営失敗の影響は大きかった。
旗振り役の石見元秀市長は42年の市長選でモノレール反対派の候補に敗れ、表舞台から退場した。期待を背負って走り出したはずのモノレールは、いつのまにか一部の市民から“お荷物”として疑問視される存在へと変わってしまったのだ。
増収を図るため、大勢の観光客が訪れる姫路城と姫路駅をモノレールで結ぶ延伸案も計画されたが、資金面の問題で頓挫。赤字が解消されることはついになく、モノレールは49年に休止、54年に廃止された。
残された遺構、どう生かすか
モノレール廃止後も、一部の軌道や橋脚部分は財政難などの理由で撤去が進まず、長い間放置された状態で“廃虚”になっていった。一方で、古代遺跡のような橋脚のただずまいにひかれて訪れる人も多く、近年こうした廃虚的な景観を新たな価値でとらえ直す動きも生まれている。
産業遺産に詳しい近畿大理工学部の岡田昌彰教授(景観工学)は「世界遺産に登録された長崎県の軍艦島に象徴されるように、廃虚と文化財を結びつけて考える見方が出てきている」とした上で、築50年を迎えた姫路モノレールの遺構は「負の遺産」ではなく「土木遺産」「文化財」になりうる潜在力を秘めた存在であると指摘する。
また、岡田教授は姫路モノレール建設の背後にある「物語」に注目する必要があるとし、「モノレール建設を通じて先人たちが実現しようとした夢や志にこそ学ぶべきものがある。右肩上がりの時代が生んだ構想力は、現代にも参考となる部分があるのではないか」と指摘している。
豊かなはずだが、豊かさの実感が少ない現代人からすれば、高度経済成長期の勢いが残っていた40~50年代の日本が輝かしい時代に映る。姫路モノレールもそんな一つだったのかもしれない。
「大将軍駅」公開に申し込み殺到
しかし、姫路モノレールの遺構も時間の流れと無縁ではいられない。老朽化が進み、耐震性に不安があるとして、この4、5年で道路をまたぐ軌道部分の撤去などが急ピッチで進んだ。さらに中間駅「大将軍駅」が入っていた「高尾ビル」の解体工事も8月下旬から始まった。
解体工事に入る直前の8月13、14の両日、最後の見納めとなる大将軍駅の一般公開が行われた。2日間限定で定員700人に対し、全国から9千人を超える申し込みが殺到した。
大将軍駅にはホームやレールなどが当時のまま残っていた。家族で参加した同県明石市の男性会社員(43)は「子供の頃に姫路市に住んでいたが、走っていたモノレールを見た記憶はない」としながらも、「高尾ビルの中に駅があるのは知っていた。ずっと気になっていた駅を見ることができていい記念になった。こんなユニークな駅はもう二度とつくられないでしょうね」と話した。
ノスタルジーに浸る市民や鉄道ファンらの姿がみられ、注目度の高さを示したが、関連する遺構は確実に姿を消しつつある。
9月22日、姫路モノレールの価値を再考しようと、同市内で開催されたシンポジウムでは、「モノレール遺構の価値を広く伝えようとするなら、姫路城のように、モノレール遺構の歴史や背景を説明するガイドを育成する必要があるのでは」「手柄山ではなく、姫路駅周辺など多くの人の目に触れる場所にモノレールの車両を展示してはどうか」などと活発な意見が上がった。
石見利勝市長は「モノレールの橋脚部分に植物を絡ませて緑化する取り組みをしているが、将来的にはロッククライミングの練習用に使ってもらうなどさまざまな活用策を考えたい」と今後の構想を語る。
安全面を担保しつつ、モノレールの遺構をどう有効活用できるのか。関心が集まっている今こそ、市民を巻き込んだ議論の盛り上がりに期待したい。
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