墓の目の前には本願寺派の要塞となった矢田城跡の丘陵があり、周辺には大字「本願寺」や、墓域を示す小字「大塚」などの地名も残る。
『長島町誌』によると、永禄10(1567)年、信長は兵3万を率いて桑名一帯を焼き払い、矢田城もいったん落城した。しかし天正元(1573)年、石山本願寺と並ぶ反信長の一大拠点だった願証寺(がんしょうじ)の攻防で前線基地となった矢田城周辺は再び激戦地に。信長配下の羽柴秀吉(豊臣秀吉)や柴田勝家らの総攻撃で、矢田城は信長家臣の滝川一益が城主となり、翌年、願証寺も降伏した。
信長の一代記『信長公記(しんちょうこうき)』には、願証寺に立てこもった本願寺派門徒2万人を焼き殺したとある。
宅地化される墓域
こうした戦国史の舞台を今に伝える「落ち武者の墓」は、市が平成13年に計画した桑名駅西土地区画整理事業の区域(26・6ヘクタール)内にある。幅が狭い昔ながらの道路を広げ、都市型の住宅地に整備する事業で、数年前までに全区域の1割が先行建設街区として造成、宅地化された。