「おもてなし」の心をより伝えるために 東北を旅して考えたこと
今週はじめ、東北に行ってきた。 自治体の招待でイタリアのジャーナリストたちが各地を旅しているので、一部の旅程を同伴した。初めての日本、しかも雪の積もる地方の風景に情緒を感じている風だった。
滞在中、2つのことが印象に残った。良いことが1つ、疑問に思うことが1つ。
良いことの1つ、どこを訪問してもチャーターされたバスに乗った我々が視野から消えるまで、訪問先の人が玄関や門の前に立って見送ってくれていることだ。人によってはずっと手を振ってくれている。
もちろん、イタリアにおいても個人的な付き合いが深く、共に過ごした時が大事であった場合、長く手を振り続けることはある。しかし、単に訪問した会社や宿泊したホテルの人が手を振り続けることは、まずない。
これと似たようなことは、地方を問わない。東京で大きな企業を訪ねても、エレベーターのドアが完全に閉まるまで頭を下げる、という習慣はある。
こういう習慣を知らないイタリアの人たちは、そのような振る舞いを日本の人たちがしているとは全く知らないから、バスに乗りこんだら今去りゆく訪問先を振り返らない。だから気が付かない。
が、これは日本の人が礼儀としてやっていることなので、「あの人たちがああ見送ってくれていますよ」と、ぼくが説明してはいけない。こうした礼儀は、不思議に思った当人に聞かれた時に知識として提供すればよいことで、礼儀を実行していること自体に注意を喚起する必要はない。気づかぬ人にあえて目を向けさせるのは、それこそ礼儀の精神に反する。
ぼくは良い習慣だと思った。風景としても、しみじみする。
しかし、「おもてなし」を日本の文化として喧伝する可笑しさという観点で、この見送る習慣をインバウンドのために宣伝材料にする小賢しい人間がでなければいい、と心から願った。
2つ目は、旅館の料理の出し方だ。
旅館は皿の数々をいっぺんに並べることが多い。通常、懐石料理であれば刺身などが最初にきて、暖かい料理に移行していく。しかし、前菜、第一の皿のパスタやリゾット、第二の皿での肉や魚と順序を追って食べる習慣をもつイタリアの人にとって、旅館の料理の提供のしかたに戸惑う。何から箸をつけて良いか分からない。が、これは説明すればすむ。
もっと大きな問題は、「料理は暖かいうち(皿によって適当な温度)に提供する」との原則に反することだ。天ぷらは調理した直後に食べるのが美味しい。が、旅館の天ぷらはもう冷めている。イタリアの「料理は熱いうちに一品ずつ提供する」という習慣とかみ合わないだけでなく、日本の料理のサービス精神にも合っていない。
旅館の厨房やスタッフの事情があるのだろうが、この料理の出し方は「悪習」である。特に、旅館のスタッフの丁寧な物腰が目を引くからこそ、料理の問題は著しく対照的になる。
日本人の友人たちからも「旅館の料理はイマイチ」との意見もよく耳にするので、違和感をもつのはイタリア人だけではない。
日本では冷たい素麺や冷たいビールなど、本来、料理の温度に敏感になる機会が多いはずである。それとも、冷めた天麩羅を食べるのは、弁当文化の影響もあるのだろうか。
理由はぼくの知るところではない。
強調したいのは、繊細に気を配る部分が全体のバランスとしてどうであるかを、外国人客はよく見ている、という点である。想像もしなかったような、ものすごく気の行き届いたところが多いのに、基本的な原則を完全に無視したりしてお客さんをガッカリさせていけない。
細かい点で驚かすことばかりに力を入れないで、本来、客であれば期待する共通的な要素で失点をとらない、との視点も必要かもしれない。
東北には、良い意味での素朴な文化がある。外国人が「発見する」ことは殊のほか多い。同胞の友人たちが知っている日本とは違う(東京や京都だけではない)日本を知っている、との自慢にもなる。
ぼくが前述で印象に残った2つは、言うまでもなく、東北だけの話ではなく日本の何処に行ってもあることだ。
だからこそ、東北で新しい視点を取り入れると、東北の良い評判が広がりやすい。地方独特の味をアピールするためには、一歩下がった目線で活きるはずだ。(安西洋之)
【プロフィル】安西洋之(あんざい ひろゆき)
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