築山殿と信康事件(岡崎市) 夫婦不和から親子対決か
静岡古城をゆく 直虎動乱の渦徳川家康の正室・築山殿(築山御前)の母は井伊直平の娘で、今川氏への忠誠の証しとして義元の許へ人質に出された。その後、要因は不明だが、義元の妹として家臣の関口義広(親永)のもと拝領妻に下げ渡された。二人の間に生まれたのが瀬名姫で、後の築山殿である。関口氏は遠江今川氏の瀬名氏の一門で、おそらく瀬名の地で過ごし、家康の嫡男・信康もここで誕生したのであろう。
時代は下って、家康は永禄12(1569)年に遠江国を制圧し、拠点を浜松城に移した。岡崎城は信康が城主となり「岡崎三郎」と称していた。織田・徳川同盟の証しとして、信康は信長の娘・徳姫を夫人としていたが、『家忠日記』などによると、どうも夫婦仲が悪かった。
天正7(1579)年、夫婦の仲は悪化をたどり、徳姫は信長に「12カ条の手紙」を告げた。内容は築山殿と信康の中傷および武田家との内通で、激怒した信長は、家康に信康(21歳)の切腹を命じたのが通説である。
この信康事件に関しては諸説あり、徳姫スパイ説・徳姫の鬱憤晴らし説・家康生母の於大方との嫁姑(よめしゅうとめ)による駿河派と三河派の対立説など幾多。筆者は家康と信康の親子対立説が有力とみている。
近年、極められた研究成果では、築山殿は岡崎城内の築山ではなく、城外の惣持尼寺に幽閉同然の生活を強いられていたという。さらに浜松城の家康は側室の西郷の局が身の回りの世話をしており、築山殿は正室の地位になかったとする衝撃的な意見である。
信康と徳姫の不和に端を発し、父・家康との対立が始まり、母・築山殿に対する恣意(しい)的な行動に反抗したとみる。これは武田氏に通じ、信康暗殺を目論んで処刑された大須賀弥四郎事件と結び付く。
母子の死後、岡崎では疫病が流行るなどしたため、家康の命を受けた石川数正が鎮魂に奔走したとされる。信康は岡崎城東の若宮八幡宮に、築山殿は祐傳寺(後に八柱神社に合祀(ごうし))に供養塔(首塚)がまつられている。(静岡古城研究会会長 水野茂)
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