【ローカリゼーションマップ】美術教育の大きなブラックホール デッサンを学ぶビジネスパースンたち
「絵を描く」は、感性教育のカテゴリーで語られることが日本では多い。
一方、欧州の美術教育では科学的な側面が強調される。ルネサンス以降、西洋絵画は描く対象の構造をはっきりさせることを重視し(レオナルド・ダ・ヴィンチの人体図を思い起こして欲しい)、遠近法を用い三次元で表現することを文化のベースとしてきた。ロジックの世界である。
デッサンはそのロジックを知る第一歩でもある。ぼくの友人のアーティストは以下のように語る。
「日本は大学受験が厳しく、美大合格のために美術予備校などでのデッサン練習量が非常に多いですが、欧州の美大生は一般的にそこまでデッサンをやっていない印象があります。いずれにせよ、デッサンの練習を繰り返すと、対象のどこを見るのが大事か、が分かってきます」
東京にビジネスパースンにデッサンの描き方を教えるアート&ロジックという会社がある。表現ロジックを学び、丸2日間で自画像が描ける、と謳う。
ぼくは週末のコースを見学してみた。
まずタッチのスピードの違いによる表現差を知る。ムンクの超早いタッチとデューラーのやや遅めのタッチを自ら経験するのだ。
腰までの人物画を逆さにして模写する、とのレッスンもある。通常のスタイルだと、顔を最初に描き徐々に腰までおりてくる。しかし逆さにすると、必ずしも顔が観察の中心にならず、全体のバランスを見るようになる。
日本画では線で輪郭をとり、2次元の表現が主流であり続けてきた。が、前述したように、西洋絵画は三次元で構造を表現するため、例えば陰影のつけかたが重要なテクニックになる。
コースに参加した牧野類さんに、「コースで何を獲得したと確信しましたか?」と尋ねると、次のように答える。
「新しく、自分の中に無かったものの見方を手に入れられた事です」
牧野さんは絵画鑑賞が趣味であり、西洋絵画は陰影でとらえ表現している、という事は分かっていた。しかし、その理解が十分ではなかったことに気づいた。
「何かを表現するプロセスは、『何を捉え、何を表現するか』と『どう表現するか』の2つに分かれると思います。ぼくは、前者の方が大切だと感じているので、紙の上に描くという行為をデッサンと呼ぶとしたら、デッサンは最重要ではないと思っています」と牧野さん。
対象への観察力を向上するにはどうすればよいか。牧野さんは、その術の一つを得たと確信したらしい。彼の仕事は出版社の編集であるが、「アウトプットの形が文章なのか絵なのかが違うだけで、本質は近いものだと感じています」と語調を強める。
この感想を聞きながら、ぼくは乳幼児教育のレッジョ・エミリア・アプローチに想いを馳せた。2カ月前に「美的要素をコアにおくコミュニティ レッジョ・エミリア教育が導く世界」で書いたことだ。
レッジョ・エミリア・アプローチでアートが重視される理由は、日常世界での観察力を高めることと美的判断力の向上の2つである。ロジックと美的判断あるいは感性は、自転車のペダルのような関係にある、との比喩を創始者のマラグッツィはよく用いたという。
ここで何十年前にも受けた日本の小学・中学・高校での美術の授業を思い起こし、ロジックでの理解・表現の仕方を教えてもらったこともなかったが、いったい美的判断力も鍛えられただろうか?と疑問に思えてきた。
「自分がきれいだと思うものを描きなさい」と言われた覚えはあるが、きれいと思う理由の説明を求められた記憶はあまり残っていない。たとえ聞かれたことがあっても、印象に残るほどではなかったのではないか。「絵は心で感じるものだ。頭ではない」とのセリフだけが耳に残っている。
今の日本の学校教育をぼくは知らないが、アート&ロジックのコースに来る比較的若い人たちが「街の絵画教室は感性で描け、と言われるだけで満たされない」と話すのを聞くと、基本的な認識に大きな変化は生まれていないに違いない。つまり観察力も美的判断もさほど重視されていなかったのではないか。そして美術史もまともに教えるカリキュラムにもなっていない。
日本の美術教育には、とてつもなく大きなブラックホールがあるような気分になってきた。(安西洋之)
【プロフィル】安西洋之(あんざい ひろゆき)
ローカリゼーションマップとは?
異文化市場を短期間で理解するためのアプローチ。ビジネス企画を前進させるための異文化の分かり方だが、異文化の対象は海外市場に限らず国内市場も含まれる。
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