「あおり運転」の事件が後をたたない。茨城県の常磐自動車道で男女が乗るクルマが後続車を強制的に停止させ、暴力をふるった一件は記憶に新しい。そんな事件が連日報道されている最中でさえ運転不適格者はさらに悪事を繰り返す。愛知県の東名高速道路でエアガンを乱射した男が警察に出頭したというから呆れてものが言えない。
知りたいのは、「あおり運転された側の運転」
どちらの犯罪者にも共通しているのは、その行為があきらかに常軌を逸している点であろう。
「パッシングしても道を譲らなかった」
「ブレーキを踏まれて追突しそうになったので腹がたって撃った」
あきらかな自己中心的な思考である。精神医学の専門家の多くはその異常な行為を「反社会的パーソナリティ傷害」という。「ハンドルを握ると人が変わる」と感じるドライバーは少なくない。だが、高速道路上で停止させ暴力をふるうことや、ましてやエアガンを撃つといった行為はもちろん、正常な人間がすることではない。あきらからに運転資質の欠格であろう。厳罰化と共に、すくなくともそれが病気であるならば完治するまでは何らかの監視が必要だし、運転の機会を与えて欲しくはないと思う。
一方で知りたいのは、「あおり運転された側の運転」である。あおる側の運転だけでなく、あおられた側の運転スタイルにも気を配る必要がある。
反社会的パーソナリティ傷害の可能性のある容疑者が頭に血がのぼった瞬間の、つまり「パッシングしても道を譲らなかった」とはどのような走行のことなのか、「ブレーキを踏まれて追突しそうになったので腹がたって撃った」と語るブレーキングとはどんなだったのかを知ることで、痛ましい事故の再発防止に役立つと思うからである。
法定速度以下で走っていたのか
「トロトロ走っていたから、頭にきた」。そういうドライバーも少なくない。そのトロトロ加減はいかようなのか。高速道路の追い越し車線を、法定速度以下で走行しつづけていたのか。あるいは正常な流れだったのか。
パッシングはあるときには良好なコミュニケーションツールになることがある。速度無制限道路アウトバーン(ドイツ)では、「ちょっと急いでいますよ」という意味を込めてパッシングが上手に活用されている。日本でも「お先にどうぞ」の譲り合いの気持ちをこめてパッシングされることもある。その優しさに対して「ありがとう」とパッシングすることもある。パッシングひとつとっても、威嚇と互譲の意味が交錯する。それが誤解を生み、反社会的パーソナリティ傷害者を刺激したとするのならば、その程度やタイミング等を我々は共有する必要がある。あおる側の運転とともに、あおられた側の運転も知りたいのはそれが理由だ。
被害を知ることで再発防止につながる
実は、譲り合いのしぐさや合図をテーマにした記事を執筆したところ、侃々諤々、様々な意見をいただいたことがある。肯定意見ではなく、反論も少なくなかった。そこで僕が語りたいのは、互譲のしぐさは三者三様であり、優しい気持ちで行ったしぐさが威嚇と誤解される危険性を含んでいることだ。ことほど左様に、交通環境でのコミュニケーションは繊細で神経質な性格を含んでいるのである。
という考えを前提にすると、「あおり運転された側の運転」を広く報道することによって、被害から逃れる可能性が増えるのではないかと思う。被害者の落ち度があったとしているのではない。被害者の体験をもっと詳細に知ることによって危険運転再発防止に結びつくのではないかと思う。
【クルマ三昧】はレーシングドライバーで自動車評論家の木下隆之さんが、最新のクルマ情報からモータースポーツまでクルマと社会を幅広く考察し、紹介する連載コラムです。更新は原則隔週金曜日。アーカイブはこちら。木下さんがSankeiBizで好評連載中のコラム【試乗スケッチ】はこちらからどうぞ。