■父が「命がけ」で伝えようとしたこと
父が生涯に書いた作品は、放送台本13本、小説&エッセー百余点、戯曲は59作目の『組曲虐殺』が遺作となりました。
自ら「遅筆堂」を名乗るほど執筆に時間をかけ、書斎にこもりきりだった父。私にとって父の書斎は聖域であり、気軽に入ってはいけない冷たい森のようなところ。その森の住民が亡くなる直前、真夜中の電話を通じて、一気に距離を縮めてくれました。2009年4月に「こまつ座」の経理を任され、夏から支配人も兼任して右往左往の真っただ中。『組曲虐殺』の原稿取りを通じて、作品がどういう構想でどんな戯曲になっていくのか、芝居がゼロから立ち上がる面白さが分かりかけてきた時期でした。
その年の10月に父は肺がんとわかり、抗がん剤治療のために入院。病院からの電話で、「こまつ座の社長を継いでほしい」と言われました。その後毎晩かかってきた電話の内容は、社長の心得、仕事の進め方、稽古場や劇場の現場のことなどで、父と娘の生温(なまぬる)い感情などひとつもありません。長電話を心配して「少し休んだら」というと、「僕が命がけで君に伝えたいことが山ほどあるのに、どうして君はそれを受け止めてくれないのだ」とも。以後、自分から電話を切らないことを誓い、指に血豆を作るほどメモを取り続けました。
父亡き後、誰もが手のひらを返すような態度になり、心が折れそうになったとき、このメモにどれほど励まされたことか。そんな父からの電話を、一冊にまとめました。