【高論卓説】各国固有の“働き方”を考える 平等社会が培った日本人の労働観


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 「働き方改革」というテーマで日本人の働き方を見直そうという機運が高まっている。日本人が豊かになり、生活が多様化し、年齢別人口構成も変化しているので、それに合わせ働き方を変えていくことは当然のことであろう。働き方を見直すにあたって、日本人固有の労働観について考えてみたい。

 筆者は米英で勤務した経験があるが、日本人と欧米の人々との労働観に大きな違いがあるのではないかと感じている。どの民族や社会も長い歴史を経て醸成された固有の労働観があり、これがその民族や社会の人々の働き方に影響を及ぼしていると考えられる。

 欧米人の労働観にはキリスト教の考え方が反映している。キリスト教徒の労働観を象徴的に表しているのが、アダムとイブの楽園追放の神話であろう。蛇にそそのかされて2人が禁断の実を食べたことを知った神は怒り、2人を楽園から追放した上に、アダムには罰として労働という苦痛と、イブには出産という苦痛を与えたのである。

 神話のこうした出来事に由来し、英語の「labor」という単語は、現在でも「労働」という意味と「出産」という両方の意味を持つのである。

 すなわち、キリスト教徒あるいはその当時のユーラシアの人々にとっては、労働とは罰としての労働であったのである。罰としての労働という考え方は、日本人にとって極めて違和感のある考え方であるが、これはユーラシア大陸の歴史を考えれば納得がいく。

 広大なユーラシア大陸では古代から現代まで多様な民族や部族が併存しており、気侯変動や経済条件などの変化を原因として、民族が移動を繰り返し、それに伴う戦争や衝突が頻発したのである。その結果、戦争に敗れた民族は、勝った民族の奴隷となり、過酷な労働を死ぬまで強いられたのである。

 その当時のユーラシアの人々にとって、労働とはまさに罰としての苦役に他ならなかったのである。キリスト教の罰としての労働という考え方は、奴隷制による労働に由来するものであろう。この考え方は今でもユーラシアの人々の遺伝子に残っていると考えられる。働かず、楽園で楽しく遊び暮らすというのが、ユーラシアの人々の理想であり、現在でもその理想が人々の心に生きていると思われる。

 これに対し、海が自然のとりでとなっていた日本では、有史以来、異民族との過酷な衝突はほとんどなく、その結果敗者を生涯奴隷として酷使するという習慣は生じなかったのである。それ故、日本人は労働を罰や苦役としてではなく、むしろ喜びとして捉えていたのではなかろうか。また日本の、達人といわれる職業人の働き方や仕事に対する心構えは求道の精神に基づくもののようにも思える。

 万葉集の、「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」という天智天皇の歌は当時、天皇が自ら農作業を行っていたか、あるいは人々の農作業の苦労に共感を覚えていたと解釈できる。

 労働を罰と考え、征服した人々を奴隷として死ぬまで酷使する文明と、最高指導者が自ら体を動かして勤労に励んだり、庶民の勤労に対する共感をしたりする日本の文明とでは、労働に対する考え方が数千年間、現在に至るまで全く異なっているのである。

 働き方改革を進めていくにあたって、長い歴史で培われてきた日本社会固有の労働観を無視してはならない。

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【プロフィル】杉山仁

 すぎやま・ひとし JPリサーチ&コンサルティング顧問。1972年一橋大卒、旧三菱銀行入行。米英勤務11年を含め、海外M&Aと買収後経営に経験が長い。著書『日本一わかりやすい海外M&A入門』ほか、M&Aと経営に関する論文執筆や講演も多数。69歳。東京都出身。