【高論卓説】伊能忠敬に学ぶ50歳からの人生 思い切った攻めで偉業も可能に (1/3ページ)

富岡八幡宮の境内に建つ伊能忠敬像
富岡八幡宮の境内に建つ伊能忠敬像【拡大】

 江戸時代の天文学者、伊能忠敬(ただたか)は1795年に佐原から江戸に出て幕府天文方の高橋至時(よしとき)に入門し、天文学を本格的に始めた。当時、彼は50歳だった。測量においては天測が重要である。天文学と測量学、そして暦学は本来、一体のものである。

 至時らは、当時最新の天体力学理論を考慮した寛政暦を97年に完成させるが、さらに精度の高い暦を作るには、地球の半径を知る必要があることに気づいた。地球の半径は子午(しご)線1度の弧長から計算できるが、当時、日本で知られた値には1割以上の差があって信用できなかった。

 そこで、至時と忠敬は子午線1度の弧長を自ら実測することを計画する。できるだけ長い子午線弧長と対応する場所の北極星の高度差を測る必要がある。幸いなことに東日本はほぼ南北に伸びていて、東京と札幌で約8度の緯度差がある。東京から測量と天測をしつつ北海道まで行けばよい。2人は幕府への働き掛けを開始する。

 折しも、帝政ロシアの北海道への来訪が頻繁になり緊張が高まっていた。正確な北海道の地図の作製は、幕府の意図と一致していた。困難な交渉の末、1800年4月に北海道への第1次測量隊が出発した。その後の15年間、忠敬は日本全国で9回の測量遠征を行い、日本の科学史に大きな足跡を残した。

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