教育、もうやめませんか

我が子は小学校に行かせない 子供は「あれはあれ、それはそれ」ができにくい (2/3ページ)

野村竜一
野村竜一

「悪意なき洗脳」 忘れられない思い出

 1箇所での濃い人間関係は、単純に視野を狭くするだけでなく逃げ場がなくなる。他者の考え方を相対化することが難しくなり、時には価値観の押し付け、そして「悪意なき洗脳」が起こりやすい。小学校で起きる問題の大部分は、生徒同士、生徒と教師の関係が濃すぎることが原因だ。価値観の相対化ができない、平たく言えば「あれはあれ、それはそれと」と考えることができにくいために、発言力のある友人、教師の言葉は時として絶対的なものとなる。それに自分が合わないと感じる時大きなストレスになったり、そこに合わせるために自分を見失う。

 小学校という閉じた場所での「だれも悪気のない洗脳」により失うものや、身につけなくていい余計なもの、何が正義であるかの押し付けといった(私の考えるところの)負の影響は無視できないと感じる。横並びの価値観や権威への無批判での追従姿勢、勤勉であることが目的化してしまう環境など、小学校で行われる「雰囲気による教育」の負の影響は、小学校で得る正の影響より大きい。

 実際忘れられない思い出がある。筆者が経営する学習塾にとある生徒がやってきた。彼は両親の仕事の都合で小学校低学年時代を海外で過ごした。いわゆる帰国子女だ。教室ではわからないことはさかんに教師に質問し、わかった時にはもちろん発言してくれた。さかんに前に出るイメージ通りの帰国子女であり教室中を巻き込んで能動的に学習する姿勢がごく自然に身についていた。しかし、1カ月もしないうちに周囲の様子を伺うようになり、教師の指示を待ち、質問する回数、発言する回数が格段に減ってしまった。聞けば通っている学校で自然と周囲の様子に合わせてしまっているとのこと。まさに、「悪意なき洗脳」が起きていたと感じショックを受けた。せめて我々の学習塾では、周囲の目を過度に気にせず行動できるよう環境設計に細心の注意を払った。

 コミュニティというのは絶えずとある価値観を軸に形成される。共通の目的だったり、共通の信念だったりに人は集まる。価値観に人が集まる故に、人はその価値観に影響を受けざるを得ない。コミュニティへの所属と「悪意なき洗脳」は切り離せるものではない。その意味で洗脳と教育は基本的に同じものだ。だからこそ複数のコミュニティに人は所属し、多くの価値観に触れ、それぞれのコミュニティを相対化できるようすべきだ。

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